映画『うさぎ追いし 山極勝三郎物語』2016/12/26 06:31

 有楽町スバル座で映画『うさぎ追いし 山極勝三郎物語』を観た。 とてもよ い映画で、おすすめである。 勝三郎は、大河ドラマ『真田丸』で全国区にな った信州の上田の山河で少年時代を過ごした。 勝三郎の子供たちが母親と「う さぎ追いし彼の山 小鮒釣りし彼の川…」の唱歌『故郷』を歌うシーンでは、 何か頬を伝うものがあった。 勝三郎と同じ長野出身の高野辰之の作詞である。  『故郷』は誰もが知っていて、歌えばそれぞれの故郷の、山河や父母、友人を 想うことになる。 世界的な病理学者の苦闘の物語を、家族愛と郷土愛で見事 に包み込む「歌の力」を感じた。

子供の頃、年末になると映画を観に行った。 忙しい家でゴロゴロしている と邪魔になる、映画でも行ってらっしゃいということだったのだろう。 スバ ル座というのが懐かしい。 母親に連れられて行って、イングリッド・バーグ マンの『ガス燈』に退屈したり、フランス映画『美女と野獣』(ジャン・コクト ー監督、ジャン・マレー主演)が怖くて後ろを向いていたのは、スバル座だっ たと思う。 スバル座は終戦の翌年、昭和21(1946)年12月31日にグリア・ ガースンの『心の旅路』で開館し、つづくガーシュインの伝記映画『アメリカ 交響楽』が新作だったので「帝都唯一のロードショウ発祥の映画館」と称した。  昭和28(1953)年、H・G・ウエルズのSFを映画化した『宇宙戦争』を上映 中、火事になり焼失した。 この『宇宙戦争』も、その前に観ている。

 近藤明男監督の映画『うさぎ追いし 山極勝三郎物語』を知ったのは、監督が 学生時代のクラブの先輩の奥様の弟だと、10月の会合で先輩に話を聞いたから だった。 山極(やまぎわ)勝三郎という名前も、業績も、まったく知らなか った。

 山極勝三郎は、文久3(1863)年信州上田の下級武士山本家の三男として生 れた、上田藩始まって以来の秀才といわれ、16歳で望まれて東京に住む医師の 山極家の養子となり、医学の道に進む。 明治13年、東京大学医学部に入学、 勉学の他に郷里出身の仲間と「上田郷友会」を結成する。 21歳で山極家のか ね子(17歳)と結婚。 だが長男が生後半年余で病死し、「なぜ病気になるの か」、臨床より基礎医学研究へと決意を固くし、卒業後は病理学を選んで、東京 大学の助手となる。 助教授時代にドイツへ3年間留学、コッホ研究所でツベ ルクリンを研究し、世界的病理学者ウィルヒョウ博士の元で病理学と病理解剖 学を学び、明治27年帰国。 翌年、32歳で教授となり、医学博士の学位を受 ける。

 肺結核を発病するが研究を続け、日本初の胃癌に関する『胃癌発生論』を刊 行、専門誌『癌』を創刊した。 自身も有力と考える、恩師ウィルヒョウの発 癌仮説である「刺激説」を証明するために、「癌が作れれば、癌が治せる」と、 癌研究の基礎実験に取り組み始める。 助手の市川厚一と、うさぎの耳にコー ルタールを塗りつける、人工癌創生の実験に苦闘すること2年、大正4(1915) 年ついに皮膚癌を発生させることに成功する。 山極勝三郎は、その喜びを「悦  癌出来つ意気昂然と二歩三歩(曲川)」と詠み、その銘板が東京大学医学部旧病 理学棟東入口にはめ込まれている(曲川は千曲川からとった勝三郎の俳号)。  何度も、ノーベル賞の候補に挙がったが、受賞にはいたらなかったという。 同 じ頃、コッホ研究所で研究し、免疫血清療法を開発した北里柴三郎のケースと 同じだろうか。

 映画で、山極勝三郎を演じたのは遠藤憲一、妻かね子を水野真紀、助手の市 川厚一は岡部尚、勝三郎の師・三浦守治教授に北大路欣也、後年業績を認めら れた勝三郎の娘という儲け役に関根恵子。 遠藤憲一は好演だったが、『真田丸』 の上杉景勝と重なり、帝大生の学生服の顔は老けすぎて、ちょいと無理があっ た。 水野真紀は久しぶりに見た、ぴったりの役柄だ、後藤田正純衆院議員と 結婚する頃、福沢諭吉協会の旅行で徳島へ行ったら、代議士が夕食会場に挨拶 に来たことがあった。 奥沢在住の落語家、古今亭文菊が勝三郎の講演に嫌味 を言う損な役で登場した。