シベリア鉄道、福沢の日英同盟論2017/06/03 07:14

 1891(明治24)年に着工されたシベリア横断鉄道だが、セルゲイ・ヴィッ テ蔵相が努力して、金本位制を確立し、フランスから資本の導入をはかって、 10年で完成させた。 ヴィッテは日本の歴史に影響を与える。 日露戦争後の 1905(明治38)年、ポーツマス講和会議にロシア全権大使として出て来て、 小村寿太郎と交渉する。 どっちが勝ったか。 ヴィッテは、小村がアメリカ のマスコミ対応を知らないので勝てると思ったと、記者会見などで平民のスタ イルを演じてアメリカのマスコミと世論を味方につけた。 日本は満州南部の 鉄道と領地の租借権などを得たものの、戦争賠償金を得られず、戦争中耐乏生 活を強いられた国民の不満が爆発し日比谷焼打事件が発生した。 だが、日露 戦争の敗北が、ロシア革命につながることになる。

 福沢は1863(文久3)年、遣欧使節の一員としてロシアに行っている。 国 境を決める交渉だったが、応接が立派で、どうも裏には日本人(難民)がいる らしい、福沢はロシアに残らないかと誘われ、気の知れぬ国だ、怖いと感じた。  アレクサンドル2世の時代で、農奴解放をやり、資本家が出てきた。 アレク サンドル2世は1881年、明治14年の政変の年に暗殺された。 アレクサンド ル3世の時代、シベリア横断鉄道を着工、極東への進出をはかり、ビスマルク との三帝同盟(ロシア、オーストリア、ドイツ)を破棄し、1891(明治24) 露仏同盟を結んだが、日清戦争の1894(明治27)年に死ぬ(その子が皇太子 ニコライ(ニコライ2世))。

 勝海舟は日清戦争に反対だった(『氷川清話』)。 兄弟喧嘩だとし、やれ ば簡単に勝つが、恐い、清国が張り子の虎だということが分かれば、ヨーロッ パがどんどん来る。 シベリア横断鉄道のシヨートカットは1895(明治28) 年、清が日清戦争の日本への賠償金を、フランスから借りるのをロシアが保証 して助けた。 中国づいたドイツが、遼東半島をパッと取り、ロシアも旅順を 取り、シベリア鉄道の南進を図る。

 福沢は、金玉均に入れ込んで、朝鮮の開化派を支援した。 勝海舟は、覚め た態度だった。 日清戦争が終った頃の、福沢の時事新報の論説(1895(明治 28)年6月21日、『福澤諭吉全集』15巻)に「日本と英国との同盟」がある。  日本が日清戦争に勝った結果、非常な名誉利益を得たが、この権益を一つの国 で保つのは大変だ。 ヨーロッパのある強国とタイアップ(同盟)して、双方 の利益を謀るべきだが、ヨーロッパの国々は相互の関係が込み入っている。 ひ とりイギリスだけは、そのパワー・バランスに加わっておらず自由なので、長 く組むことが出来る。 イギリスの利害は、ロシアの南進を防ぎたいという多 年の外交戦略にある。 ロシアの南進運動は近来、トルコ、アフガンの侵略に 満足せず、満州朝鮮にもなすところがある。 かのシベリア鉄道が完成すれば もちろんだが、その前にも活発な運動を目撃するだろう。 日本と英国との同 盟は、両国にとって非常な利益になる、というのである。

 日露戦争直後の1905(明治38)年、来日したアメリカの鉄道王ハリマンは、 南満州鉄道(満鉄)の日米共同経営計画を日本政府に提案した。 日本ではほ とんどが賛成で、桂太郎首相との間で桂・ハリマン覚書(協定)が交わされた が、ヴィッテにやっつけられ、ポーツマス条約の締結を終えて帰国した小村寿 太郎外相が強く反発したため、覚書は消え去ることとなった。

 竹森俊平教授は、ここは(もし福沢がいれば)福沢の出番だった。 もしア メリカと組んでいれば、その後のアメリカとの衝突は回避されたのではないか、 と言った。 初めに書いたようによくわからないのだが、ワグナーの『ニーベ ルングの指環』が、要所要所で引き合いに出されたことだ。 死を免れようと すれば、巨人族=軍人と戦わない手があった。 ラインの乙女に指環を返せば、 命が助かるジークフリートは福沢、日本。 ほかに、アルベルヒは資本家、ヴ ォータンはロシア皇帝、「神々の黄昏」は三帝同盟など。 このへんのストー リーが、お分かりの方はご教示ください。

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