富岡製糸場と渋沢栄一、尾高惇忠2017/06/17 07:16

 富岡製糸場へ行く途中、バスは深谷を通った。 渋沢栄一の出身地である。  富岡製糸場でのガイドでは、渋沢栄一やその従兄で初代場長を務めた尾高惇忠 (あつただ)の話が出た。 前に引いた『写真集 富岡製糸場』の今井幹夫富岡 市立美術博物館館長の論考では、「器械製糸場設立の目的」のところで、明治6 年の中ごろに尾高惇忠自身が書いたと思われる公の記録『富岡製糸場記 全』が 引用されている。 明治新政府は明治3(1870)年2月、生糸の輸出に大量の 粗悪品が出たことや旧来の製糸法を改善するために、指導者を海外に求め、一 大製糸場を設立して模範を示すことが肝要だという結論に達した。 設立の命 を受けたのが、大蔵少輔伊藤博文と租税正(そぜいのかみ)渋沢栄一だった。  伊藤、渋沢らは、政府顧問のフランス人ジブスケや生糸貿易商の紹介で、ブリ ュナを雇い入れることにした。 ブリュナや玉乃正履らは、製糸場の適地を求 めて武蔵・上野・信濃を巡視し、最適地に富岡を選定した。

 『写真集 富岡製糸場』巻末の座談会に、岩本謙三さんと共に出席している森 まゆみさんが、なぜ富岡になったかという事情を語っている。 地元の深谷に 近いということで、渋沢栄一がかなりかかわっていたらしい。 深谷の辺りも 養蚕が盛んで、本人の家も蚕糸関連の仕事をしていた。 松浦利隆群馬県世界 遺産推進室長も、渋沢栄一が一橋家に仕えていたときに、一橋家の領地がこの 近くにあったので、もともと富岡を知っており、もし近在の農家だけで繭を調 達できなかったら、元の領地から持ってこられるということもあったらしい、 と言っている。

 森まゆみさんは、彰義隊のことを調べたことがあるが、尾高惇忠はその一員 で知恵袋だった。 従弟の渋沢栄一も幕臣だから彰義隊にかかわったはずなの だが、ちょうど徳川慶喜の弟の昭武に随行して渡欧していて、その間にご一新 になってしまった。 西洋の様子を実見し、近代化を進めて銀行や株式会社な どの新しいシステムをつくろうとした一つである、富岡製糸場に尾高惇忠を登 用した。 そういう意味では、明治維新の負け組の人たちがかかわって、薩長 の人たちとは違う形で明治をつくっていく、富岡製糸場はその象徴的な建物だ ということが言えると思う、そこが個人的に富岡に惹かれるところだと、森ま ゆみさんは言っている。

 松浦利隆さんによれば、製糸業の経済史を研究した石井寛治東大名誉教授が、 モデル工場ということについて、日本と中国で差があったことを指摘している。  日本の場合、富岡製糸場も新町屑糸紡績所も、民間に教えるから見に来いとい う、どんどん民間が真似をして、民間の資力が足りないから国の工場を払い下 げる。 中国では、模範工場をつくると民間が真似するのを禁止して、国家で しかやらなかった。 アジアの産業革命には、そういう二つのやり方があった が、わりと最初から自由経済主義的だった日本は成功した。

 全国から糸繰りの仕方などの技術を習いに来た女性は「伝習工女」と呼ばれ ていたが、工女募集の通達を出しても、最初の内はなかなか人が集まらなかっ た。 人々がフランス人の飲むワインを血と思い込み、「富岡製糸場に入ると外 国人に生き血をとられる」というデマが流れたためだった。 尾高惇忠は、率 先垂範で自分の娘「勇(ゆう)」(14歳)を工女第一号として入場させ、その後、 井上馨の姪二人とか、いろいろな華族や士族の人たちが娘や姪を、何人も連れ て駆けつけた。 女性がかなりプライドを持って工女として働いた。 婦女教 育を最初からやっていて、国家がつくったところに行くというのは、幕府に行 儀見習いに行くのと同じで、糸をひきながら行儀見習いをするということだっ たようだ。 明治初期の工女は、後年の『ああ野麦峠』の暗いイメージとはだ いぶ違う。

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