井坂直幹と木都(もくと)能代2018/05/29 07:12

 県北、能代市へ向かう。 井坂直幹(なおもと)の足跡を尋ねるためである。  井坂直幹という名だけは知っていた。 福沢は、明治13(1880)年12月、大 隈重信、伊藤博文、井上馨に政府の機関新聞発行の引受けを要請され、翌月政 府に国会開設の意があることを打明けられたので、協力を決意する。 その準 備に、中津出身の門下生(入社帳に記載なし)で水戸師範学校長だった松木直 巳に、優秀な若者の推薦を依頼する。 そして石河幹明、井坂直幹、高橋義雄、 渡辺治の4人が上京した。 4人は時事新報の記者となり、やがて石河幹明は 時事新報主筆・『福沢諭吉伝』の著者・『福沢全集』『続福沢全集』編者、高橋義 雄は三井各社役員・茶人箒庵、渡辺治は大阪毎日新聞社長となる。

 そこで井坂直幹だが、主として編集局翻訳係の記者として4年間勤務の後、 明治20(1887)年3月26歳の時、時事新報社長中上川彦次郎の紹介で、文章 に長けた人を求めていた大倉喜八郎の秘書役となる。 大倉喜八郎は、深川の 大手木材問屋・九次米商店と提携し、林産商会を設立、九次米が独占していた 秋田の国有林の払下げを引き継ぐ。 井坂は林産商会能代支店支配人となり、 九次米が経営不振で撤退すると、その資産・負債一切を継承、明治30(1897) 年に能代挽材合資会社を設立、明治40(1907)年には能代挽材、秋田製材、 能代木材を合わせて秋田木材を設立する。

 秋田杉は、木目の美しさ、強度、狂いが少ない木材として、現在も高い評価 を得ている。 全国にその名を知られる契機になったのが、井坂直幹が明治30 年代から始めた機械による製材だった。 それまでの木材と違い、規格が揃い、 木目の美しさが一目でわかる板が大量生産され、製品は飛ぶように売れ、全国 に広まった。 天然杉の集散地、能代は「東洋一の木都(もくと)」と称せられ、 木材業を近代産業に育て上げた秋田木材の創業者・井坂直幹は「木都の父」と 呼ばれるようになった。 秋田木材「秋木」は、東京、大阪など国内主要都市 や朝鮮半島にも進出、発電や機械製造などの事業を展開して「秋木王国」を築 いた。

 福澤諭吉協会一行は、新緑滴る御指南町の井坂旧宅跡にある井坂公園へ行き、 井坂直幹記念館を見学し、井坂を祀る御指南神社に参った。 井坂公園の奥に、 井坂直幹の胸像がある。 実は、この胸像を昭和44(1969)年に制作したの が、今回の旅行の案内役、畠山茂さんの実の父上、阿部米蔵さん、秋田大学教 授・新制作協会会員の彫刻家だという。 畠山さんは次男で、旧姓は阿部、あ る日、井坂を慕う数人の人が父上のアトリエを訪ね、こう頼んだそうだ。 井 坂直幹翁の胸像を再建(以前のは戦争時に金属供出)したく、別の彫刻家に依 頼していたのだが、高齢で完成できなかった、作りかけの胸像を持参したので、 引き継いでほしい、と。 父上は、作りかけの作品を受け取らず、「私なりに井 坂さんのことを調べてからご返事します」と一行を帰した。 父上は、感動に 値する人物でなければ、その人の彫刻像を手掛けることはなかった。 やがて、 井坂直幹のことを深く納得して、全く新たに制作したのが、現在の胸像だとい う。 数年前、父上の屋外作品を確認調査していた畠山茂さんは、父上とその 作品を通じて、福沢門下の井坂とご自分とに不思議なご縁ができるものだなあ と、感慨を持って胸像を見上げていたそうだ。

          (写真は新緑の井坂公園、奥に井坂直幹の胸像が見える)