中島岳志さんの『保守と立憲』を読む2018/05/09 06:34

 「中島岳志さん、いいなと思っている。」という書き出しで、中島岳志さんの 『「リベラル保守」宣言』(新潮社・2013年)を読んで、三日にわたって書いた のは、2015年9月のことだった。

中島岳志さんの『「リベラル保守」宣言』<小人閑居日記 2015.9.28.>

http://kbaba.asablo.jp/blog/2015/09/28/

民主主義が健全に機能するためには<小人閑居日記 2015.9.29.>

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社会の中で「役割」「職分」を獲得して生きる<小人閑居日記 2015.9.30.>

http://kbaba.asablo.jp/blog/2015/09/30/7819002

 そこで評判の近刊『保守と立憲』(スタンド・ブックス)を読んでいる。 「中 島岳志さん、現在は東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。 「あとが き」に、「私は、学術的な文章を書くと同時に、時事的な評論を書くことを大切 にしてきました。それは福沢諭吉や中江兆民といった近代日本を代表する思想 家たちが、時事的な問題を批評するかたちで、自らの思想や論理を示してきた からです。彼らは特定の時代の中で、特定の問題と関わりながら、普遍的な考 察を進めていった人物でした。」と書き、中島さん自身も自分の生きる時代と向 き合いながら、普遍的な問題を考えてきていて、そうした試みをまとめたのが 本書だと述べている。 論考の大半は、2012年以降の安倍政権下で書かれたも のだ。

 冒頭の書き下ろし、まず「右左の二項対立を超えて」。 安倍内閣が右派的な 強引な政権運営をつづけ、多くの人が不安や嫌悪を抱いているのに、選挙では 勝ち続け、衆参両院で圧倒的な数を維持している。 その原因の一つには選挙 制度もあるが、それ以上に重要なのは、国民にとって「もうひとつの希望ある 選択肢」が、なかなか見いだせなかったという現実がある、と中島さんは言う。  そこで「強権的なウヨク」政権に対抗するのは「左派」という構図になるけれ ど、彼らの一部は教条的で、時に実現可能性やリアリズムを無視した反対意見 を振りかざし、その態度はしばしば強硬で、何か自分たちが「絶対的な正しさ」 を所有しているような雰囲気を醸し出している。 「強権的なウヨク」政権と 「教条的なサヨク」運動、この両者は対立しているように見えて、実は同じ態 度を共有している。 それは自分と異なる人の意見に、なかなか耳を傾けよう としないという点である。 両者とも「自分たちの正しさ」を疑わず、丁寧な 合意形成を拒絶するという点で、同じ穴の貉(むじな)のように見える、と中 島さんは言う。

 安倍内閣という「一隻の船」が、徐々に傾き、沈んでいっているのに、乗り 移るべき別の船が見当たらない。 今、重要なのは、この二項対立を超えた「も う一隻の船」を準備することではないか。 多くの国民が求めているのは、極 端な選択肢ではない。 極端な態度の中には、自らの能力に対する過信や特定 の政治的立場に対する妄信が含まれている。 大切なのは、自己の正しさを不 断に疑い、他者の多様性を認める姿勢だ。 異なる見解の人に対してバッシン グするのではなく、話し合いによる合意形成を重んじ、現実的な解決を目指す 態度こそ重要だ。 このような態度こそ「リベラル」の本質、「保守」の本質だ と、中島岳志さんは思っている。 「リベラル」の反対語は「パターナル」で、 「保守」ではない。 「パターナル」は父権的と訳されるように、相手の意志 を問わずに介入・干渉する態度をいう。 「強権的なウヨク」も「教条的なサ ヨク」も、基本的にパターナルだ。 いくらリベラルなことを言っていても、 態度がリベラルでなければ意味がない。 今、求められている「もう一隻の船」 は、「リベラルな現実主義」であるといい、中島岳志さんはこの立場を「リベラ ル保守」という言葉で表現してきた。