五十にして〔昔、書いた福沢51〕 ― 2019/04/24 07:10
五十にして <等々力短信 第564号 1991(平成3).4.25.>
前回、調べてみると、いろいろ面白いことが分かってきたと書いたのは、こ ういうことだった。 土橋俊一先生からご指摘を受けた日の夜すぐ、近々「等 々力短信」で訂正しますという、お礼の手紙を書いて投函した。 翌朝、会社 に出て『小泉信三全集』の年譜を見て、びっくりした。 福沢諭吉全集の完成 記念会が、昭和39年4月29日になっていたからである。 あわてて土橋先 生にお知らせしたら折り返し、『小泉信三全集』の校正ミスに驚かれつつも、 記念会が4月9日であったことを証明する、新たな証拠のコピーを二つ送って 下さった。 『慶応義塾百年史』付録の慶応義塾年表と、「三田評論」昭和 39年7月号の千種義人教授撮影のグラビアである。 4月9日という説明の ついた写真の一枚では、たしかに松永安左ェ門さんがスピーチをしている。
運よく近所の図書館に『松永安左ェ門著作集』(五月書房)があった。 そ の第六巻の年譜(白崎秀雄さんの誤りの原因となった電力中央研究所刊『松永 安左ェ門翁の憶い出』の年譜を参照したという)をみると、やはり「四・二九 勲一等瑞宝章を贈られるも受(ママ)章式には欠席、この日パレスホテルで おこなわれた福沢全集完成記念会に出席し、高村塾長、小泉信三、富田正文ら に編纂の労をねぎらう」とあった。
当時の新聞の縮刷版を見てみたら、意外なことが判明した。 この時の叙勲 が戦後第一回の生存者叙勲で、たしかに発令は4月29日だが、大勲位菊花大 綬章の吉田茂氏を始めとする、勲一等以上の親授式が皇居で行なわれたのは、 5月6日のことだった。 その日、対象者22名の内19名が出席した。 私 も孫引きした「松永一人だけが出席しなかつた」という白崎さんの記述も、事 実に反するようだ。
その年譜の誤りを発見することになったけれど、『小泉信三全集』を参照し たおかげで、福沢諭吉全集完成記念会での小泉信三先生の素晴しいスピーチを 知った。 当初小泉先生は、富田正文先生がこの編纂を引き受けてくれれば、 事業は成功すると確信して、「富田さん、東西を問わず学者がライフワークの 着手に早すぎたという例は一つもきいていません。 何時も誰れも彼れも皆な 晩すぎて、日暮れて途遠しの嘆をくり返すのです。 貴兄は五十だが、どうで す、この辺でライフワークに手をつけては」と説いたのだそうだ。 私も同級 生たちも、まもなく五十、最近のダイヤモンドの五十歳広告だけに、心まどわ されている場合では、なさそうだ。
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