「福沢学・「耳学問」のすすめ〔回顧 土曜セミナー〕〔昔、書いた福沢119〕 ― 2019/09/30 07:14
『福澤手帖』第135号(2007(平成19)年12月)の「福沢学・「耳学問」のすすめ〔回顧 土曜セミナー〕」。
福澤諭吉協会の会員として私が自慢できることといえば、1973(昭和48) 年11月10日に三田の塾監局会議室で開かれた第一回の「土曜セミナー」を聴 いていることだろう。 卒業してまだ8年しか経っていない時で、当然参加者 の中では一番若い方だった。 芳賀徹さんが「福澤諭吉の文章」について話さ れたが、その5年前に中公新書『大君の使節―幕末日本人の西欧体験』を出し た芳賀さんはまだ東大の助教授で、若手バリバリの研究者が資料を博捜した名 講演という感想を持った。 しかし講演後コメントした高橋誠一郎先生の「少 年時代、福沢家の広くて静かな書庫に一人入り込んで、手当たり次第雑多な本 をぬき出して読んだものだ。福沢先生が時折顔を出して『何か面白いものが見 つかったか』と声をかける。実は先生に見せられない黄表紙を読んでいた」と いう経験談には、さすがの芳賀さんも苦笑するしかなかった。 三田の台に黒 髪を風に薫じさせていたその頃から、頭が光を放つようになった現在まで30 年余、「参加することに意義がある」というオリンピックの精神で、ずっと「土 曜セミナー」を拝聴してきた。 鈍重に継続するというのが、私のやり方だ。 どういう人だかわからないけれど、いつもいる人ということで、この原稿も依 頼されたのだろう。 芳賀徹さんは、あと二回講師を務められている。 第三 十五回の「福澤の『西航手帳』をめぐって」と、平成15年の総会記念講演「福 澤諭吉と岩倉使節団―彼らは西洋文明をどうとらえたか―」である。 三回以 上講師をなさったのは、もうお一人、福沢の西航巡歴の実証研究で知られた山 口一夫さんの四回である。 福沢研究が自治省の事務次官までされた山口さん の余技だったことは、研究者でない協会会員に勇気を与えるものだった。 あ のご温顔が懐かしい。 「土曜セミナー」には、素晴しい方々が講師で来られ たし、参加していらっしゃる方々も素晴しかった。 質問すれば何でも分かる 「歩く福沢事典」の富田正文先生のお話を伺えることも楽しみだったし、おそ らくセミナーの企画も担当されていたのだろう土橋俊一さんの名司会ぶりも忘 れられない。
私事を申せば、父の創業した零細なガラス工場を、塾出身の兄と経営してき た。 零細企業だから「土曜セミナー」のある土曜日は当然会社があったのだ が、私のいわゆる「福沢さんの会」は特別で、次男坊のわがままを許してもら ったのは有難かった。 「福沢さん」の名は、大手を振って外出する黄門様の 印籠のようなものだった。 高校生だった1958(昭和33)年、慶應義塾創立 百年の年に出版された甲南大学の伊藤正雄教授の『福沢諭吉入門―その言葉と 解説』(毎日新聞社)によって、私は福沢諭吉に出会った。 福沢に興味を持っ た私に、父はちょうど刊行され始めた『福澤諭吉全集』を買ってくれた。 そ して『福澤諭吉全集』の読者に送られて来た案内によって、私は福澤諭吉協会 に参加させてもらうことになったのだった。 伊藤正雄先生は第二回に「『福翁 百話』に見る福澤晩年の思想」を話され、その後も「土曜セミナー」できちん と背筋を伸ばしたお姿をお見かけしたが、ついにお声をかけて、福沢入門のそ も馴れ初めについてお話することが出来なかった。 いま思えばまことに残念 で、その伊藤正雄さんが7月に亡くなったことを知ったのは、1978年9月16 日の第十六回「福澤諭吉と子供の本」での桑原三郎先生のお話からだった。
慶應志木高校で英語を教えていただいた野口福次先生にはいつも「土曜セミ ナー」でお目にかかった。 「よくいらっしゃいますね」とご挨拶すると、「耳 学問で」とおっしゃった。 これはいいと、私もそれを頂戴して、「耳学問」を 決め込むことにしたのである。 昨年12月9日、坂野潤治さんの「幕末・維 新史における議会と憲法―交詢社私擬憲法の位置づけのために」(『年鑑』33号 の一覧表記載の題は、当日こう変更された)で第百回を迎え、総会記念講演三 十一回を加えた百三十一回のほとんどを「耳学問」することによって、私の福 沢諭吉像、福沢学は形作られてきた。 本で読んだものの歩留まりは怪しいけ れど、文字通り謦咳に接し、肉声で語られる「土曜セミナー」は、血となり肉 となったように思う。 なんとも有難い機会なのであった。 ついでに「土曜 セミナー」は福澤諭吉協会の会員が対象だけれども、慶應義塾には福沢の時代 の三田演説会以来の伝統だろう「広く一般の方々を対象として」公開されてい る講演会がある。 慶應義塾が主催する福澤諭吉誕生記念会、三田演説会やウ ェーランド経済書講述記念日の講演会、福澤研究センターの講演会、小泉信三 記念講座や創立百五十周年記念事業の「復活!慶應義塾の名講義」シリーズも、 だれでも聴くことができる。 せっかくの良い講演に、集まる人の数はけして 多くはないのだ。 もったいない限りである。 自由な時間を獲得しつつある 友人たちに、私はもっぱら「耳学問」をすすめている。
「土曜セミナー」で学んだ一例を紹介しておく。 森鴎外や日本銀行につい てのご本を愛読していた吉野俊彦さん(当時、山一證券経済研究所理事長)は 第六回で「福澤諭吉と富田鉄之助」を語った。 富田鉄之助は仙台藩の出身、 勝海舟門下で、その長男小鹿の米国留学に付き添って渡米し、経済学を修め、 外交官を経て、日銀総裁、東京府知事を務めた。 大童信太夫にひきたてられ た富田は、仙台藩や大童と関係のあった福沢とは幕末から知り合っていたらし く、富田が杉田玄白曾孫の美人と結婚するに際しては福沢が媒酌人を務め、日 本最初の夫婦契約書が作られた。 三田演説館の設計についても、在米の富田 が材料を提供している。 私が吉野俊彦さんの講演で初めて知って驚いたのは、 三多摩は八王子も三鷹も明治前半まで神奈川県だったということだった。 1891(明治24)年からの富田の東京府知事時代、多摩川は上流の三多摩が神 奈川県に属し、水道として使っている東京府では上流の管理の悪さからチフス やコレラが流行したりしていた。 今でも縄張り問題は大ごとだが、富田は抜 身を下げた相模の壮士に狙われたりしながら、命をかけて三多摩の東京府併合 に成功し、東京の水源を確保した。 水道をひねって、ふと思うことがある。 先人は便利なものを考え、よく作っておいてくれたものだ、と。 その先人に 富田鉄之助や長与専斎、W・K・バルトンといった名前があり、バルトンにつ いては後に福沢とその父親との関係を私が知ることになったのだった(『福澤手 帖』132号)。
深く印象に残っている講演を、十だけ列挙しておきたい。 第三回・池田彌 三郎さん「日本語の近代化と福澤諭吉」。 第十回・飯沢匡さん「ユーモリスト としての福澤諭吉」。 第二十四回・正田庄次郎さん「田端重晟(しげあき)日 記より見た福澤と北里」。 昭和57年記念講演・武見太郎さん「福澤諭吉の『帝 室論』をめぐって」。 昭和60年記念講演・丸山眞男さん「福澤における「惑 溺」」。 昭和61年記念講演・永井道雄さん「福澤先生とその時代」。 昭和62 年記念講演・江藤淳さん「福澤先生と三田文学」。 第六十四回・辰濃和男さん 「福澤諭吉の文章」。 それらは古い交詢社の大食堂の、いささか暗い重厚な雰 囲気とともに記憶に残り、つぎの二つは日本橋室町三井本館の明るい横長の部 屋とともに思い出に残っている。 平成14年記念講演・阿川尚之さん「トク ヴィルの見たアメリカ福澤諭吉の見たアメリカ」。 第九十回・橋本五郎さん「ジ ャーナリストの学ぶ福澤諭吉」。
「土曜セミナー」は、最初に書いた塾監局の第一回と桑原三郎先生と梅渓昇 さんのお二人が講師だった大阪新阪急ホテルの第五十八回の二回を例外として、 すべて交詢社で開かれている。 3月交詢社から刊行された竹田行之さん執筆 の『交詢社の百二十五年―知識交換世務諮詢の系譜』に、『福澤諭吉全集』に収 録されてはいないが福沢の文体的特徴が濃いという「交詢社設立之大意」が収 録されている。 交詢社の目的は、知識を交換し世務を諮詢(世の中の諸事を 相談)することにあるとして、「抑も学問の道は学校のみに在らず、又読書のみ に在らず。学校に入て諸科の学を学び、家に居て百家の書を読むも、限ある一 人の力を以て千緒万端この繁多なる世の中の事に当らんとするは、迚も叶ふ可 きことに非ず。(中略)人々雅俗の別なく、其知る所を人に告げて、知らざる所 を人に聞くは最も大切なることにして、譬へば我が一つ知る事を十人に告げて、 十人の知る事を我に聞けば、一を以て十に交易する割合なり。之を活世界の活 学問と云ふ。即ち知識を交換するとは此事なり」。 「土曜セミナー」の場とし て交詢社ほど、ふさわしい場所はない。 講演後の鋭いコメントやスリリング な質疑応答も「土曜セミナー」の大きな魅力の一つである。
かつて松永安左エ門さんは、福沢桃介の言葉を引き、人間を一つのダンゴに まるめて一番大きいのは福沢先生で、まるめようとしても、それは至難の業だ といった(『人間 福澤諭吉』)。 これからも福沢諭吉という巨大な人物に、各 方面の講師がいろいろな角度から挑んでいく「土曜セミナー」を「耳学問」で きることは、この上もない楽しみである。
小人閑居日記 2019年9月 INDEX ― 2019/09/30 08:34
橘家圓太郎「小言念仏」のマクラ<小人閑居日記 2019.9.2.>
橘家圓太郎「小言念仏」の本篇<小人閑居日記 2019.9.3.>
柳亭市馬の「淀五郎」前半<小人閑居日記 2019.9.4.>
柳亭市馬の「淀五郎」後半<小人閑居日記 2019.9.5.>
日本の「窓」ヨコハマ(1)〔昔、書いた福沢110-1〕<小人閑居日記 2019.9.6.>
日本の「窓」ヨコハマ(2)〔昔、書いた福沢110-2〕<小人閑居日記 2019.9.7.>
日本の「窓」ヨコハマ(3)〔昔、書いた福沢110-3〕<小人閑居日記 2019.9.8.>
CD-ROM版「百科事典」で「福沢諭吉」を検索する(1)〔昔、書いた福沢111-1〕<小人閑居日記 2019.9.9.>
CD-ROM版「百科事典」で「福沢諭吉」を検索する(2)〔昔、書いた福沢111-2〕<小人閑居日記 2019.9.10.>
CD-ROM版「百科事典」で「福沢諭吉」を検索する(3)〔昔、書いた福沢111-3〕<小人閑居日記 2019.9.11.>
バルトンとバートン(1)〔昔、書いた福沢112-1〕<小人閑居日記 2019.9.12.>
バルトンとバートン(2)〔昔、書いた福沢112-2〕<小人閑居日記 2019.9.13.>
バルトンとバートン(3)〔昔、書いた福沢112-3〕<小人閑居日記 2019.9.14.>
バルトンとバートン(4)〔昔、書いた福沢112-4〕<小人閑居日記 2019.9.15.>
「世紀をつらぬく福澤諭吉 没後100年記念」展を見て(1)〔昔、書いた福沢113-1〕<小人閑居日記 2019.9.16.>
「世紀をつらぬく福澤諭吉 没後100年記念」展を見て(2)〔昔、書いた福沢113-2〕<小人閑居日記 2019.9.17.>
「世紀をつらぬく福澤諭吉 没後100年記念」展を見て(3)〔昔、書いた福沢113-3〕<小人閑居日記 2019.9.18.>
「和歌山・高野山・白浜を訪ねる」(1)〔昔、書いた福沢114-1〕<小人閑居日記 2019.9.19.>
「和歌山・高野山・白浜を訪ねる」(2)〔昔、書いた福沢114-2〕<小人閑居日記 2019.9.20.>
「和歌山・高野山・白浜を訪ねる」(3)〔昔、書いた福沢114-3〕<小人閑居日記 2019.9.21.>
「和歌山・高野山・白浜を訪ねる」(4)〔昔、書いた福沢114-4〕<小人閑居日記 2019.9.22.>
「徳島慶應義塾・内田彌八・子規と松山」の時代(1)〔昔、書いた福沢115-1〕<小人閑居日記 2019.9.23.>
「徳島慶應義塾・内田彌八・子規と松山」の時代(2)〔昔、書いた福沢115-2〕<小人閑居日記 2019.9.24.>
「徳島慶應義塾・内田彌八・子規と松山」の時代(3)〔昔、書いた福沢115-3〕<小人閑居日記 2019.9.25.>
短信 ある老作家の人生<等々力短信 第1123号 2019(令和元).9.25.>
福沢諭吉の片仮名力(ぢから)〔昔、書いた福沢116〕<小人閑居日記 2019.9.26.>
読書会「福澤諭吉の女性論・家族論」(1)〔昔、書いた福沢117-1〕<小人閑居日記 2019.9.27.>
読書会「福澤諭吉の女性論・家族論」(2)〔昔、書いた福沢117-2〕<小人閑居日記 2019.9.28.>
スコットランドにW・K・バルトンの記念碑建つ―百七年目の帰郷―〔昔、書いた福沢118〕<小人閑居日記 2019.9.29.>
「福沢学・「耳学問」のすすめ〔回顧 土曜セミナー〕〔昔、書いた福沢119〕<小人閑居日記 2019.9.30.>
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