中国語なるほど面白クイズ(「この漢字、読めますかクイズ」植物編の答)2021/04/11 08:12

1. 労働布
2. 生魚片
3. 鰐梨
4. 牛角面包
5. 推鉛球
6. 双眼皮
7. 緑毛
8. 微軟
9. 鋼琴
10. 便民店

「この漢字、読めますかクイズ」植物編の答
1. 辣韭・薤 らっきょう
2. 独活   うど
3. 秣    まぐさ
4. 薊    あざみ
5. 通草・木通  あけび
6. 万寿果  パパイヤ
7. 無患子  むくろじ
8. 黄楊   つげ
9. 菘    すずな(カブ)
10. 蘿蔔   すずしろ(ダイコン)

朝日新聞、なぜ「福澤」と表記?(中国語なるほど面白クイズの答)2021/04/12 06:52

 10日の朝日新聞朝刊、土曜日beの「はじまりを歩く」が、「演説(東京都港区)」だった。 最初の見出しは「対等な社会へ 自由に意見を」で、日本に演説という文化が入ってきたのは明治の初め、「福澤諭吉が、著書『学問のすゝめ』のなかで「演説とは英語にて『スピイチ』と言い、大勢の人を会して説を述べ、席上にて我思うところを人に伝うるの法なりと定義している。」「1875(明治5)年、福澤が演説を広めるため東京・三田の慶応義塾(現慶応大学)に建てたのが「三田演説館」である。146年たったいまも現存する。」と、福沢諭吉が、演説を創始し、三田演説館を建てたことを紹介している。

 この記事(文・佐藤陽記者)で、私が不思議に思ったのが、「福澤」という表記が「余話」まで一貫して使われていることだ。 朝日新聞の通常の表記では、「福沢」とするところだと思う。 なぜなのだろうか。 一方、「慶応義塾(現慶応大学)」は、「慶應」でなく「慶応」になっている。 「慶応義塾(現慶応大学)」という書き方自体も、現在は慶應義塾大学なのだから、違和感はあるけれど…。

 私は、普通の文章では「福沢」と書く。 組織の名や本の題名で「福澤」となっていれば、「福澤」を使う。 元来、慶應は自由な学校で、堅苦しいことは言わない気風がある。 福沢研究の第一人者、富田正文先生も、「福沢」を使い、「福沢」でよろしいと言っておられた。 ご自身の富田も、善福寺のお葬式に伺ったら「冨田」とあって、隣に座っておられた佐志傳さんに「冨田だったんですね」と話した記憶がある。 手書きから、ワープロ・パソコンになって、「福澤」も「慶應」も簡単に出るようになったのが、近年の「福澤」優勢を支えているのだろう。

 昨年秋、『福澤手帖』187号に、芳賀徹さんの追悼文を書かせてもらった。 文中に「福澤諭吉協会」と書いたのが3か所あったが、再校正で編集担当(慶應義塾大学出版会)から「福沢諭吉協会」と直す提案があって、そういう表記規則ならやむを得ないと、了解したのだった。

中国語なるほど面白クイズの答
1. 労働布 デニム 
2. 生魚片 お刺身 
3. 鰐梨 アボカド (当初ゴーヤとしたのを訂正) 
4. 牛角面包 クロワッサン 
5. 推鉛球 砲丸投げ 
6. 双眼皮 二重まぶた 
7. 緑毛 カビ 
8. 微軟 マイクロソフト 
9. 鋼琴 ピアノ 
10. 便民店 コンビニ

『青天を衝け』、開国勅許と将軍継嗣問題2021/04/13 07:07

 『青天を衝け』第6回「栄一、胸騒ぎ」で、「こんばんは」と出て来た徳川家康(北大路欣也)は、61歳の時の子、11男の頼房がやんちゃで、7歳の時、常陸国水戸に居城を置き、25万石を与えた、と水戸徳川家誕生の話をした。 皇室を大切にする家で、毎年領地で獲れる一番ジャケを皇室に献上した、その息子が光圀で「主君は京の天子様で、徳川一門挙って敬うべし」と言った。 「孝を東照公(つまり自分)に、忠を天祖に尽くす」と、尊王の思想、水戸学の本を書いて全国に広めたのが藤田東湖(渡辺いっけい)、徳川斉昭(竹中直人)に強い影響を与えたが、安政2(1855)年10月の江戸大地震で死んでしまった。

 『青天を衝け』、その第6回、第7回「青天の栄一」、第8回「栄一の祝言」あたりの、政治情勢である。 老中阿部正弘(大谷亮平)はペリーの開国要求に際し、諸大名・幕臣などに諮問(岡部藩に幽閉され、釈放された高島秋帆は開国に賛成)、安政元(1854)年3月、やむなく日米和親条約を締結、安政3(1856)年8月にはアメリカの総領事ハリスが下田に着任、阿部は諸外国と正式に国交を開き通商も始める開国へ導く方針に転換した。

 安政4年正月、新年を祝う尊皇の水戸徳川家では、斉昭の正室、皇室出身の吉子(登美宮・原日出子)が上座で、斉昭以下がお酒を賜わる。 義公と呼ばれた第二代光圀は、「徳川宗家と争うとも、天子様には弓引くな」と言ったという。 幕府内で尊皇攘夷を主張する斉昭は、朝廷に幕府の開国の方針を伝えてしまう。 慶喜(草彅剛)は父斉昭に引退を勧めるが、斉昭は「慶喜が将軍になるなら」と突っぱねる。

 もろもろの対応に苦労した老中阿部正弘が亡くなり、幕府は大混乱となる。13代将軍家定は病弱で、次期将軍に井伊直弼(岸谷五朗)ら溜間詰諸侯は家格が上の紀州の慶福を推し、斉昭や松平慶永らは、英明な資質の慶喜を推す。 家定は、井伊直弼(岸谷五朗)を大老に任命する。 大老になった井伊は「日米修好通商条約」を結ぶが、調印は違勅だと大問題に発展、井伊に意見した斉昭や松平慶永、慶喜には処分が下され、安政の大獄の苛烈な弾圧が始まる。

 『青天を衝け』では、斉昭だけが朝廷に幕府の開国の方針を伝えてしまうと描かれたけれど、阿部正弘の後の老中堀田正睦らが条約調印の勅許を得に上京するが、予想外の手強い反撃にあって、空しく江戸に帰着し、その三日後、井伊直弼は電撃的な素早さで大老の職に就く。 井伊は、持ち前の強気で押し切って、勅許を待たず条約に調印、かえす刀で、慶福を将軍継嗣にする旨、宣言した。

攘夷運動のシンボル斉昭とバイブル水戸学『新論』2021/04/14 07:07

 そのあたりの歴史を、改めて考えてみたいと、「日本の近代1」松本健一著『開国・維新』(中央公論社)の「攘夷と尊王」の章を読み返した。

 幕末というのは、ペリー来航(1853年)から明治維新(1868年)に至るまでの、わずか15年間にすぎない。 その15年間の激動における最初のベクトルが「攘夷」であり、それは幕府がペリーの砲艦外交によって、やむをえずではあれ「開国」への道を選びとった、反動、つまりアンチテーゼの意味をもっていた。 だとすれば、「攘夷」をいうことは、終(つい)には、「開国」路線をとった幕府に対する否定へとむすびついていかざるをえない。 そのことを明快に察知していたのは、幕末の政治を実際的にリードしてきた薩摩藩の西郷隆盛だった。 だが幕末という時間の中では、幕府が一時攘夷路線を鮮明にしたこともあった。 西郷の師とよんでもいい島津斉彬の場合は、まだ幕府を中心に攘夷策をとることが可能だと考えていた。 その攘夷策のために、オランダの力を借りて科学技術の開発や産業振興を行うこととし、また攘夷家のシンボルであった水戸の徳川斉昭を海防の責任者に据えるべきだと考えた。

 攘夷運動の最先端に立っていたのは、徳川斉昭をシンボル的存在とする水戸藩だった。 これは、水戸藩の領海に外国船が姿を現わし始め、文政7(1824)年には藩領の大津浜(水戸北方の交易港)にイギリス捕鯨船員が薪水を求めて、大挙上陸した事件をきっかけにしていた。 幕府は翌文政8(1825)年異国船無二念(むにねん)打払令を出した。 その年、前年の大津浜上陸事件の際、筆談役を務めた水戸藩の史館総裁代役の会沢正志斎(あいざわせいしさい、安(やすし))が海防に目覚めて『新論』を書いた。 水戸学はもともと、徳川光圀の『大日本史』編纂にさいして成立した、儒学的な名分論で、その本質は、日本の歴史をかえりみることによって名分(道徳上、身分に伴って必ず守るべき本分)を正し、日本における名分としての「尊王」思想をうちだすところにあった。 会沢正志斎の『新論』は、藤田東湖の『弘道館記述義』(弘化4(1847)年)とともに、後期水戸学を代表する思想で、大津浜事件をきっかけとする、西洋列強の東アジア侵略に対する危機意識によって、時務論(いま何をなすべきか)の性格をおびた「尊王攘夷論」へと変質する。 西洋列強が東アジア侵略をおこなっているという現状認識が不可欠で、その認識のもとに、日本みずからが「富国強兵策」を講じ、長期的には「人民を強化」すべきこと。 そのためには国家がついにその「頼むべきものは何か」として、我が国の「国体」を明らかにしなければならない、というのである。 『新論』は幕末攘夷運動のバイブルとなる。 徳川斉昭は、藤田東湖と会沢正志斎が積極的に動いたことで藩主となり、攘夷運動のバイブル『新論』と、シンボル的存在斉昭の結びつきが、ここに生まれた。

 会沢正志斎の『新論』を読んだ吉田松陰は、ペリー来航の一年半前、嘉永4(1851)年から翌5年にかけて、水戸まで会沢に会いに来る。 松陰は当時、数え22歳、会沢は70歳に達していた。 若き松陰は、70翁会沢の素直な人柄、「聴くべきもの」があればすぐに「筆を把」る学習欲に関心し、自分が日本の歴史に暗かったこと、「吾今にして皇国の皇国たる所以を知れり」、いわば〝日本〟に目覚めるのだ。 会沢『新論』の国体論はまだ、異国船無二念打払令を出した幕府に対する擁護論、もしくは補強論だったが、吉田松陰の国体論(『講孟余話』安政3(1856)年)は、幕藩体制に対する革命論の意味をもつようになっていく。

ハリスの駐在、堀田正睦、井伊直弼の登場2021/04/15 07:00

 アメリカの初代駐日総領事(コンシュル consul)となったタウンゼント(『開国・維新』は「ト」だった)・ハリス(1804~78)は、安政3(1856)年7月21日、軍艦サン・ジャンシント号で下田に到着した。 下田奉行の井上清直(川路聖謨の弟)は幕府に上申して、ハリスの駐在が認められ、下田郊外の柿崎にある玉泉寺が宿舎となり、8月5日星条旗がひるがえった。 ハリスは、井上清直に通商の自由と、通貨交換比率の取り決めを要求し、江戸における「日米修好通商条約」の締結をもくろんで、幕府に江戸への出府許可を要請する。 この過程でハリスは、外国と条約を結んでいる国家は外国使節に対する応接も「各国共通の礼式」を用いるべきで、自分がもっている大統領の国書は江戸にいる国王(将軍)がみずから受け取るべきだと、主張した。 この「各国共通の礼式」が国際法(万国公法)にもとづく規定をさしていることは、この時点では、まだ明らかになっていなかった。

 ハリスの江戸出府が実現したのは、彼の粘り強い交渉の結果であると同時に、「蘭癖」の堀田正睦が前年の安政2(1855)年10月から老中首座になっていたからである。 堀田と阿部正弘の連立政権は、堀田がもっぱら外交問題を担当し、そのもとに外国貿易取調掛を置くことによって、すでに外国との貿易の開始にカジを切っていた。 この取調掛に任命されたのは、それまで対外交渉に当たっていた開明派の能吏、川路聖謨、水野忠徳、岩瀬忠震らである。

 この堀田正睦の起用については、それまでの幕政が阿部正弘・徳川斉昭と外様大名ラインによってリードされてきたことに対する、名門の譜代大名ラインからの反発が強く働いていた。 その中心人物が譜代大名のうちでも名門意識の強い、溜間詰の彦根藩(35万石)主の井伊直弼だった。 井伊は、幕府保守派勢力の筆頭ともいえる人物で、外国との戦いをさけるいわば「事なかれ主義」から、開国や貿易をやむをえないと考える立場に立っていた。