タケが歌麿から聞いた、蔦重出世噺2021/06/30 07:01

 蔦重は、吉原の以前住んでいた家を、年明けから大々的に売り出そうと思っている浮世絵師の歌麿に、貸してやっていると言って、大門を出て右手前にある、小ぢんまりとした一軒の店に、タケを連れて行った。 りよという歌麿の女房が迎えた。 店の奥は、二間続きの座敷で、手前の部屋では、一人の男がうずくまって、一心不乱に絵を描いていた。 これが、歌麿か。

 タケは翌日から店に出て、歌麿に蔦重のことをいろいろと教えてもらう。

 蔦重が本屋を始めたのは、今から13年前、ここから大門寄りの4軒先にある、蔦屋次郎兵衛の店先で貸本業を主にした店を始め、2年後に、版元の鱗形屋さんから『細見』作りの手伝いを頼まれて、蔦重はまず、古くて間違いだらけだった『細見』の内容を正しました。 一軒一軒見世を回って、中味を新しいものに書き換えました。 翌年には自ら『細見』作りを始め、上下二段を使って書くことで『細見』の丁数(ちょうすう)をおよそ半分にし、浮いた紙の仕入れ代や手間賃を使って、美しい絵柄のついた、『細見』を入れる外袋を作りました。 すると、最初は『細見』を馬鹿にしていた江戸っ子たちも、中身ではなく、袋欲しさに『細見』を買うようになり、買ってみると正しい情報が詰まった、使える本になっていたのです。 蔦重の工夫はそれだけでなく、『細見』の序文を当時〝時の人〟だった平賀源内、浄瑠璃の筆名「福内鬼外(ふくうちきがい)」に書かせたのです。 蔦重が関わるようになってから、『細見』の売上が何倍にもなりました。 8年前に独立して版元となり、この場所に『耕書堂』を開きました。 その後は『細見』の株を買い占めたので、今や『吉原細見』といえば、春と秋に出るこの一種類があるのみです。

 版元となって、最初に出したのが『一目千本』、通人の嗜み、挿花の絵手本帖の体裁で作られているが、絵は当代一の売れっ子の絵師北尾重政、花の絵の横に見世と花魁の名前が入っている。 本を出す資金のない蔦重は、主だった妓楼から出資金を集め、妓楼が贔屓筋に配る、贈答品を作ったというわけです。 『一目千本』に載っているかいないかで、花魁が格付けされるようになりました。 なお、『一目千本』は3年後、版木から遊女の名を削り取り、『手毎の清水』と題目を変え、正式に挿花の絵手本帖として発布されました。

 蔦重は、吉原の貸本屋から、日本橋に地本問屋を構えるまでに、出世していく。 店を大きくしただけでなく、当初の目算通り、吉原を文化の魁の地とし、廃れかけていたこの町を復活させたのですから。

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