元禄以前から連歌師や俳諧師、出版で食べられる2021/07/19 07:00

 田中優子…『人倫訓蒙図彙(じんりんきんもうずい)』では俳諧の法式は松永貞徳、雛屋立圃(ひなやりゅうほ)に始まったとある。 でも『俳諧京羽二重』では点者(判定者)と俳諧師と作者を区別している。 西鶴は作家になる前に俳諧師として暮らしていた時期があるけれど、20代で点者になっている。 その西鶴が亡くなったあとの元禄期で京都に29人の、大坂には24人の俳諧点者がいたようだ。 蕉門の俳諧師がさらに輪をかけた。 あとは蕪村の時代までずっと続く。

 松岡正剛…俳諧師が食べられたのは出版をともなっていたからだろう。 西鶴も10代後半は連句に応募するほうだったけれど、「生玉万句(いくたままんく)」のときは阿波座堀(あわざほり)の版元の板本安兵衛と組んで、ディレクターになって、企画力で勝負した出版を成功させる。 安兵衛もアマチュアの俳諧師だった。 ともかくおもしろかったんだと思う。 やっぱり「座の文化」っておもしろい。

 松岡…「連(れん)」の活動は、どう評価されていたのか。 いまのわれわれは狂歌を全集で読んでいろいろ評釈もできるけど、当時は作品の善し悪しの点数などはつけていない。 田中…評価を狙っていたのが評判記だ。 また評価には出版社もかかわってくる。 たとえば歌麿の『画本虫撰(むしえらみ)』を編集するときに、狂歌師は誰にしようかという選び方をするわけだ。 そうすると、おもしろい狂歌をつくる人たちがだんだんスクリーニングされてくる。 松岡…つまり、平安王朝の歌あわせの判者に近いことを、地本(じほん)問屋などがやり始めた。 田中…そうだ。 しかし地本問屋が自分だけでやっているわけではなくて、まさに蜀山人こと大田南畝みたいな人が、あれがいいとか悪いとかしょっちゅう言っているわけだ。 それが評判記になったり噂になったりする。 そういう人に依存している本屋さんもいるわけだ。 あるいは蔦屋重三郎が南畝と相談しながら決めるというようなことも起こる。 そういう意味のリーダー的な人というのは、必ずいる。 評価眼や評価意識は、そうとうに高かったと思う。 ただ、変化のスピードが速いので、ゆっくり考えて評価しているというわけでなく、次から次に来るものをとっさに評価できる目利きが出てくるということだ。 たとえば平賀源内が大田南畝を評価するとか、南畝が山東京伝を評価するとか、こういうふうにして評価観が受け渡されていく。

 田中…最初は遊女評判記から始まって、次に役者評判記が出てきて、それが定期刊行物になる。 これは元禄よりずっと前のことで、遊廓や歌舞伎の商業化と関係がある。 その後、談義本評判記、黄表紙評判記、洒落本評判記、読本(よみほん)評判記というふうに展開する。 たとえば黄表紙評判記が『菊寿草(きくじゅそう)』という題名になるように、それぞれ本らしい題名がつくので、評判記かどうかの区別がつきにくいが。 複数の人が座談会風にやっている。