<等々力短信 第1147号>は、 ― 2021/09/25 07:03
<等々力短信 第1147号 2021(令和3).9.25.>「チェコ語の「ヘイ ジュード」」は、9月17日にアップしました。9月17日をご覧ください。
1873(明治6)年、岩倉使節団とウィーン万博 ― 2021/09/25 07:04
9月8日にBSプレミアムカフェ(司会渡邊あゆみアナ)で「世界 わが心の旅 ウィーン(1)ベートーベンの心の音色 指揮者・尾高忠明(2003年)(2)ウィーン世紀末のジャポニスム 作曲家・團伊玖磨(1995年)」の再放送があった。
團伊玖磨さんは、かつて『パイプのけむり』を愛読していたので見始めたら、興味深い話題だった。 團さんは1995(平成7)年ウィーンへ、ウィーンと日本の、歴史と文化の交流を跡をたどる旅に出る。 ウィーンに残る日本文化の源流は、1873(明治6)年の岩倉使節団とウィーン万国博覧会だった。
團伊玖磨さんは、岩倉使節団に同行した團琢磨(1858(安政5)年~1932(昭和7)年)の孫にあたる。 團琢磨は、福岡藩士馬廻役神尾宅之丞の四男として生まれ、12歳で勘定奉行團尚静の養子となり、1871(明治4)年旧藩主黒田長知の供をして、金子堅太郎とともに岩倉使節団に同行して、渡米した(13歳)。 マサチューセッツ工科大学の鉱山学科を卒業、1878(明治11)年に帰国した(20歳)。 金子堅太郎は、ハーバード大学を卒業したが、二人の交遊は続き、團琢磨は金子の妹芳子と結婚した(伊玖磨さんの祖母である)。
岩倉使節団がウィーンへ行った1873(明治6)年6月、ちょうどウィーン万国博覧会が開かれていた。 皇帝フランツ・ヨーゼフ一世の治世25年を記念して、ドナウ河に沿ったプラーター公園が会場だった。 万国博覧会は、1851年第1回ロンドン(水晶宮)、1853年ニューヨーク、1855年第1回パリ、1862年第2回ロンドン、1867年第2回パリ(徳川昭武、渋沢栄一)とつづき、ウィーン万博は日本政府が初めて公式に参加したものだった。 岩倉使節団を歓迎する宮中晩餐会で、岩倉具視の隣には、「シシィ」の愛称で呼ばれた絶世の美女、皇后エリザベートが座ったという。
團伊玖磨さんは、旧知の歴史学者で日本研究家ペーター・パンツァー(1942~)さんを訪ねて、ウィーン万博関係の資料を沢山見せてもらう。 ペーター・パンツァーさんは、1968年ウィーン大学より明治から大正初期の日本とオーストリアの関係の研究で博士号を取得し、ウィーン大学日本学研究所助教授となった。 現代史を講ずる一方、明治時代の外交史を研究、二度来日している。
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