北区田端大龍寺の「女醫右田朝子之碑」2021/11/19 07:11

 右田(みぎた)アサが「日本の眼科女医 第1号」としてにわかに注目されるようになったのは、近年のことだと、西條敏美さんの「28歳で没した日本初の眼科女医 右田アサ(1871~1898)」にある。 その「科学者のふるさとを訪ねる」が東京都北区田端になっているのは、平成11(1999)年秋に近所の人が散策の途上、大龍寺で「女醫右田朝子之碑」を見つけ、興味を持ったことが、発端だったからだ。 大龍寺は、正岡子規の墓があることで知られている。 子規もまた、アサの死から4年後の明治35(1902)年、同じ肺結核で36歳の若さで亡くなっている。

 アサの碑は、死の翌年に建てられている。 28歳で亡くなり、大きな業績を遺したわけでもないのに…。 碑文によると、アサは、幼い時から賢くて、飾り気がなく、一度決めたことはやり抜く強さを持っていた。 品格高く、進取の気性に富み、意気地なしを奮起させるほどであった。 彼女は、自分の病気の回復の見込みがないと悟った時、「自分の眼球を摘出して医学の研究資料にしてほしい」と遺言した。 医学に熱心で、心掛けの見事さは、世界中を探しても多くはないであろうと、知人たちが相談して、井上達也の墓の側に碑を建て、永く偲ぶ手立てにしようとした、とある。

 碑文の撰者は友人 井上達七郎、題額は陸軍軍医総監 石黒忠悳(ただのり)。 井上達七郎は、アサの師であった井上達也の養子で、井上眼科病院第3代院長になった人物である。 石黒忠悳は、森鴎外の上官で、懇意であり、当時の有力者がアサの死を悼み、支援したということらしい。

 アサの墓は、ふるさと島根県益田市の暁音寺にある。 近隣からは、津和野出身の森鴎外、美都出身の秦左八郎(細菌学者、サルバルサンを開発)と、二人の著名な医学者が出ている。 鴎外はアサより9歳ほど年長だが、左八郎は2歳下である。 二人とも同時代に医学を志して上京し、名家に生まれ、進取の気性に富んでいたというのも、共通している。 アサの碑の建立には、森鴎外も動いたのであろう。

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