北沢楽天のさいたま市立漫画会館2021/12/15 07:10

 大宮公園駅からまず、表札にさいたま市北区盆栽町とある住宅街を歩いて、さいたま市立漫画会館へ行く。 『時事新報』に漫画を描いた近代風刺漫画の祖、北沢楽天(1876(明治9)年-1955(昭和30)年)晩年の住居(「楽天居」)跡地に建てられている。 楽天が亡くなった後、いの夫人から作品や遺品、住居等がさいたま市に寄付され、楽天は大宮の名誉市民第1号に選ばれ、翌年漫画会館が開館した。 北沢家が大宮宿の脇本陣という旧家だったということは知らなかった。

 東京の神田で生まれた北沢楽天(本名・保次)は、絵を学んでいて、オーストラリア人の漫画家ナンキベルに西洋漫画のテクニックを教わる。 19歳で横浜の外国人向け出版社に入り「漫画」を描くようになる。 その技術を買われ、23歳で福沢諭吉の『時事新報』に絵画部員として入社、楽天の描く「時事漫画」はたちまち評判になる。 『時事新報』の編集室にいる福沢諭吉を、後に描いた漫画が展示してあった。 明治38(1905)年、29歳の楽天は日本初のカラー漫画雑誌『東京パック』の創刊に尽力した。 楽天の漫画は、高い描写力とウイットの効いた風刺が特徴で、当時低俗といわれた漫画を、家族で楽しめる読み物に一新させた。 楽天は「職業漫画家」の草分けとして活躍し、政治・外交・文化を題材にしたさまざまな漫画を描いた。 昭和4(1929)年パリの美術展に出展するためフランスに船で渡り、ヨーロッパを1年半周遊、旅先の風俗・文化を漫画にし、原稿を定期的に日本に送り、『時事新報』の「時事漫画」に連載された。

 時事新報を56歳で退社すると、芝白金三光町の自宅アトリエを開放して絵画教室を開いた。 弟子たちの育成に力を注ぎ、惜しみなく援助、彼らは「三光漫画スタジオ」という漫画集団として活躍した。 戦後、72歳で北沢家ゆかりの大宮に「楽天居」を構え、昭和30(1955)年に79歳で亡くなるまで、趣味の日本画を描いて過ごした。