アイディアとチームワーク2021/12/30 07:25

           (3)アイディアとチームワーク

          ユニークな目のつけどころ

 平安時代末期の庶民は、京都の大路で用便をすませたあと、どのように処理しただろうか。 当時の、群集の髪のうなじの伸び方、飼猫の頚に紐があってどこかにつながれている様子、子供の所作のいくつか、うずくまり方、お産の状況、そんな興味深い情景が見られる本がある。 それは、渋沢の遺志によって出版された『絵巻物による日本常民生活絵引』(全5巻、角川書店)という本である。 書物に字引があるように、絵にも絵引が必要だ、絵巻物のなかにその主題目とは別に、なにげなく描かれている民衆の生活や文化を、抜き書きして整理し、索引をつければ、民具研究や庶民生活の研究に役立つにちがいない、という渋沢が永年抱きつづけたアイディアの実現されたものである。

 渋沢敬三の学問は、目のつけどころがユニークであった。 多くの人の見落しているものに目をつけ、つぎからつぎへとアイディアを展開して、卑近に見えるそのテーマが実に無限の広がりをもっていることを、実証してみせた。 例えば、水産史の研究をどう進めるかといえば、まず魚の名前を集めてみる。 昔は生きた魚を外国から輸入するなどということは考えられなかったから、魚だけは日本の物産のうちで、もっとも純粋に日本的であり、魚名には外来語がきわめて少ない。 言葉という意味でも、もっとも古い形をそのまま伝えている。 だから魚名を研究すれば、言語学的にも、魚の流通という面でも、面白いだろう、人と魚の関係がわかってくるだろうと考える。 次に水産に関して発明や功労のあった人についての資料を集めてみると、技術がどのように伝播、分布していったかがわかる。 さらに漁具について調べる。 そのようにして、漁業と人間のかかわりあいのあらましが、分ってくるというのだ。

          人間関係と社会の新しいモデル

 渋沢は、まれにみるアイディアの豊富な人であったが、それは単なる思いつきではなく、学問の体系と基盤にもとづいていた。 アイディアだけでは学問にならない。 アイディアが正しく育つような土壌をつくり、適当な環境を整えることが必要だ。 自分のアイディアだけでなく、他の人のアイディアも一緒にそだって行くような配慮が要る。 人が仲良く一緒に仕事をすることができなければ、本当の仕事、とくに新しい仕事は決して成長させることはできない。

そう考えた渋沢は、人材を見いだし育成することに力を尽したアチック・ミューゼアムでの研究活動に、「チーム・ワークのハーモニアス・デヴェロープメント」を待望し、新しい人間関係、新しい社会のモデルを求めたのであった。

          諸学の連携と学者への援助

 渋沢はまた、学問が細分化して目標を見失わないように、諸学の連携にも努めた。 民族学協会会長として、人文科学の各学会によびかけ、昭和25年、8学会連合、翌年には9学会連合を実現させ、その会長になった。 9学会とは、社会、人類、考古、宗教、民俗、民族、言語、心理、地理で、のちに考古が脱会して、東洋音楽がこれにかわった。

 渋沢敬三は学問には素人だといつも明言し、自分は道楽に学問をするのだから、学者の仕事を尊重するのだといって、学者の面倒をよく見た。 ことに水産学、農学、医学、民族学、民俗学、理学などの研究者で、渋沢の援助をうけたものはきわめて多かった。 戦時中、左翼的であるとして弾圧を受けていた多くの文化人を、かげになりひなたになってかばったり助けたりしている。 向坂逸郎(さきさかいつろう)は、東大で同級生だった関係もあり、学校を追われて困っていた時、渋沢の援助をうけたことを、『学ぶということ』という著書のなかに書いているという。 渋沢が大蔵大臣だった時、とくに進んで日本学士院の会員に年金を支給し、またその金額の増額を決定したことを、小泉信三が特筆している。

          人をつくり、博士をつくり、書物をつくる

 亡くなった渋沢に代って、『日本常民生活絵引』の前がきを、研究グループ「絵巻の会」を代表して書いた有賀喜左衛門は、「絵巻の会」の仕事が渋沢を中心とした同志的結合によって固められていたこと、その芯には学問的で、話ずきで、あけっぴろげな、明るい教養人としての渋沢の持つ無限の人間的魅力があったことを記している。

 『世界伝記大事典』(ほるぷ出版)の「渋沢敬三」の項の末尾に、宮本常一は、渋沢が「多くの人々を結びつける不思議な才能を持っていた」ことを、特に記している。

 『日本常民生活絵引』の序で、長男雅英は「父の仕事は地味であったが、その底には日本の学問や文化の体質を根本的に変えようとする広汎で不退転の企図があった。 祖父青淵の伝統をうけて、父もまた勇敢な開拓の人であった。 『人をつくり、博士をつくり、書物をつくり、日本の文運の片すみではあっても、またそれがはなばなしいものではなくても、少なくともまがいものでない文化の一部を築いたつもりである』と父は遺言の中で述べている。 父の仕事はこれからも、いのちをもってこの国の文運の中で更に生長してゆくにちがいない」といっている。