金沢のお嬢さんに「ホワイトクリスマスを見に来ませんか」と言われた2023/03/28 07:12

 松居直さんは翌昭和21(1946)年春、旧制の同志社大学予科に入った。 キリスト教に触れ、「ヨハネによる福音書」の第一章に「初(はじめ)に言(ことば)があった」という有名なことばがあるが、「生きる」ということを考えるときに、「ことば」が非常に大切だと感じ始めていた。 大学では、政治史の岡本清一先生と、世界史の今津晃先生に大変影響を受けた。 大学は勉強をするところだということ、そしてアメリカ史の特色のようなものを感じることができた。

 金沢出身の友達が、「同志社女子大に入ったばかりの金沢の本屋の娘が下宿を探している、なんとかしてくれないか」というので、その方の下宿が見つかるまでお世話をした。 当時ビング・クロスビーの「ホワイト・クリスマス」が大流行していて、冬休み近くに、そのお嬢さんに「ホワイトクリスマスを見に来ませんか」と言われた。 それで冬休みに金沢へ遊びに行くと、まさにホワイトクリスマスだった。

 教会の礼拝に出たり、お父さんの福音館書店の佐藤喜一社長と色々話したりした。 福音館は、もともとカナダのパーシー・プライスというメソジスト教会の宣教師が北陸伝道のために作った、文書伝道の店だったが、宣教師では経営ができないので、名古屋の取次店で北陸担当の番頭をしていたクリスチャンの佐藤喜一を経営者にヘッドハンティングしたというわけだった。 佐藤は商売の肝をしっかりと押さえた経営者で、お客様を非常に大切にする誠意に満ちた商売センスを持ち、店の前の旧制第四高等学校の先生方などから信頼を得ていた。

 その後も、二三度遊びに行っていると、大学卒業を目前にした昭和25(1950)年、「出版をやろうと思ってるんだが、片棒担がんか」と言われた。 その時、福音館は『中学数学公式集』という中学生向きの小事典シリーズの一冊目を出して、好評を得ていたが、佐藤は編集が本職の人ではなかった。 「海のものとも山のものともわからんけれど」、毎月三千円小遣いを出す、寝食はちゃんと保証するという条件、松居さんはそういうことを非常に率直に言う人柄にも惹かれた、信頼してくれているからこそ、全部ぶちまけて言うんだろうと思った。 未知のもののほうが好きだったし、知らない世界に飛び込むことは「生きる」ことで、引き受けることにした。

 翌昭和26(1951)年2月に仕事を始めてしまったので、同志社大学の卒業式に出ていない。 父が病気で亡くなり、三番目の兄も就職したばかり、授業料を払えないので、半年働いてから持って来ると、学生部長に話をして卒業証書を預かってもらった。 当時の同志社大学はそういう学校だった。 創立者新島襄先生の有名な遺訓には「学生を丁重に取り扱え」というのがあった。

『私のことば体験』には書かれていないが、金沢の書店のお嬢さんの名は、佐藤身紀子、松居さんの家に下宿したらしく、のちに松居直さんと結婚する。 福音館書店は出版の製本・流通の限界から、まもなく東京に進出するので、身紀子さんは青山学院大学の卒業、染色画家となった。