上大崎の常光寺「福沢諭吉先生永眠之地」 ― 2025/02/09 08:01
本芝公園から、鹿島神社の前を通って、最近は国道沿いから横道に移った西郷隆盛・勝海舟江戸開城会見記念の碑へ。 鹿島神社は、常陸の本社から祠(ほこら)が帰しても繰返し漂着するので祀ったと伝わる。 海から寄せ来る神の例で、芝の漁業のありようを示すという。 正面左に芝浜囃子の碑があり、揮毫は寄席文字の家元橘右近で、地元出身だそうだ。
都営地下鉄三田線の三田駅から白金台へ行き、果物屋で曲がって、いつもの道を常光寺へ。 常光寺の玄関、両柱に「三田あるこう会様」「二月三日 福翁忌」と掲げてあり、大黒様(ご住職の奥様)が集合写真のシャッターを押して下さった。
『福澤諭吉事典』「常光寺」の項に、「昭和51(1976)年に常光寺が、墓地は浄土宗の信者に限るという管理規定を制定したことをきっかけに、再び福沢家で墓地移転が検討され、「何か不都合が生じたら菩提寺に改葬するように」と福沢が息子たちに伝えていたという話から、善福寺への改葬が決められた。/52年5月22日に墓を発掘したところ、地下4mの棺から屍蠟化した福沢の遺体が発見され、新聞各紙でも話題となった。保存を求める声もあったが、福沢家と慶應義塾で協議し、当初の予定どおり火葬され、福沢夫妻の遺骨は善福寺に移されると同時に、福沢家の墓がある多磨霊園にも分骨された。翌年5月、常光寺の福沢埋葬地跡に「福沢諭吉先生永眠之地」と刻まれた記念碑が建立され除幕式が行われた。」とある。
なお、類似の話がある。 この日、先に行ったオランダ公使館のあった西應寺だが、俵元昭さんの『港区史跡散歩』によると、越前松平家の菩提寺で、昭和46(1971)年に墓地の改葬のさい、同家白河時代の藩主基知(もとちか)の母、三保(享保12(1727)年死去)の遺体がワクス状態で発見され、貴重な医学的事実として慈恵医大解剖学教室に冷凍脱湿保存されているそうだ。
目黒駅近くの昼食場所、しゃぶしゃぶ「温野菜」に行く途中、福沢家が下級武士だったという話になり、中津藩奥平家は何万石だったかと聞かれたが、わからなかった。 あとで調べたら、十万石だった。 昼食後、命日なので福沢先生にまつわる講話をと、前日に宮川幸雄会長に頼まれていたので、雑談ならと断わり、福沢先生のユーモアについてしゃべらせてもらった。 話下手なので、一応プリントを配った、タイトルは「福沢諭吉の「新作落語」「漫言」ジョーク集『開口笑話』」。
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