「下町っ子」大野晋さんの苦学 ― 2011/02/17 06:52
腰痛で安静にしていた時に読んだもう一冊、川村二郎さんの『孤高 国語学者 大野晋の生涯』(東京書籍)である。 このところ、深川づいていて、大野晋さ んも深川区黒江町(現在の江東区永代2丁目)の砂糖問屋の生れだった。 昨 年の9月に亡くなった印刷会社、例の短信封筒の友人は永代2丁目、深川づい ているのは、彼の引きがあるのかもしれない、などと思う。 大野晋さんの砂 糖問屋は、永代通りと清澄通りがぶつかる門前仲町の交差点、赤札堂の斜め前 にあったが、父親は二代目で、商売に熱心でなく、書画を愛する趣味人、大野 さんの成長と反比例して、家業が傾いていくことになる。 学区内の臨海小学 校に入ったが、上の学校へ行くにはよいと、父親が強引に明治小学校に転校さ せ、府立一中(現日比谷高校)の受験は失敗するものの、昭和7(1932)年東 京開成中学へ進む。
開成中学からは、一高や海軍兵学校へ進む生徒が多かった。 その前年、い わゆる満州事変が勃発、不況と右傾化の影が色濃くなってきていた。 山の手 の友達へ行くと、知識階級の家が多く、学問の香りがし、時間が静かに流れ、 夕食をご馳走になると洋風だったりして、商家である家には夏目漱石と国木田 独歩の二冊しか本らしい本のなかった「下町っ子」の大野はみじめな、打ちの めされる思いをすることが多かった。 家へ帰ると店番をさせられるので、学 校の帰りはもっぱら清澄公園脇の深川図書館で、片端から本を読んで過ごした。
中学4年進級を目前にして父親に、門前仲町の店を畳むことになったので、 中学をやめて働きに出てくれないか、と言われる。 だが大野少年は、柳行李 一つで家を飛び出し、山の手の友達の家を転々と泊りながら、学校に通った。 ひと月ほどで、事情を知った担任が、住み込みの家庭教師の口を見つけてくれ たのを皮切りに、アルバイトの家庭教師を掛け持ちして「開成中学四年修了」 の証書を手にする。 四年修了で受けた第一高等学校の入学試験には失敗する が、翌年の昭和13(1938)年、ドイツ語を第一外国語とする第一高等学校文 科乙類に28人中28番目の合格者として入学する。 努力もあったが、運も大 野晋さんの味方をしたのである。
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