大原孫三郎、若い時の失敗挫折と大転換2016/04/02 06:28

 『日本歴史大事典』が「1897(明治30)年東京専門学校(現、早稲田大学) に入学、1901(明治34)年学窓を離れて帰郷」としているのには、深い事情 があった。 兼田麗子著『大原孫三郎―善意と戦略の経営者』(中公文庫・2012 年)に、若い時の失敗挫折と大転換の物語がある。  天領、幕府直轄地だった倉敷には、代官所から委任された中間的・民主的な 行政・支配機構が存在していた。 自分たちの生活と地域を、合議制に基づい て自主的にコントロールするといった、民衆参加型の共同体運営が行われる、 自由で大らかな、自治、責任の歴史的風土があった。 祖父の大原壮平もまた、 自由な企業家精神を持ち、家業であった米穀問屋と呉服商に加えて、金融業も 営むようになる。 明治維新以降、物価高騰と土地制度改正のあおりで窮乏し、 農地を手放す農民が増加したが、壮平は多くの農地を買い集め、大地主となっ た。

父孝四郎は、祖父壮平に見込まれて、縁続きの藤田家から養子に入った。 儒 者の家の出身、漢籍に明るく、書画を好み、大原家に来る前は俳句も詠むなど、 風流を愛する文人だったが、同時に目新しいことは積極的に着手する側面があ って、養家では勤勉さと独創性によって、引き継いだ家業を発展させた。 孫 三郎は、父が47,8歳の時の子供で、誕生の1年後、長男の基太郎が20歳で急 逝、姉は二人いたが、大原家唯一の男の子となった。 甘やかされて育てられ、 癇癪持ちで気性の激しい子供になっていった。

孫三郎は、高等小学校と、閑谷黌(しずたにこう・岡山藩主池田光政が設立 した郷学)で二年弱学んだあと、上京して東京専門学校(現、早稲田大学)に 入った。 親元を離れ、自由な広い社会で新しい人たちに出会う中で、次第に 学校での勉学から遠ざかっていく。 金持の子だというので、寄って来て集(た か)る「友人」と称する人物もいて、当初の洋食食堂や芝居、寄席から、悪友 に誘われるがまま花柳界へも足を踏み入れるようになる。 やがて高利貸から も借金をして遊ぶようになり、借金がかさみ、正月にも帰郷できなくなり、姉 卯野の夫の原邦三郎によって連れ戻されると、東京の高利貸が倉敷の大原家ま で追ってきた。 父孝四郎は、「どこの者ともわからぬ若者によくぞ貸して下さ った」と言って、高利貸を歓待し、ひとまず東京にひきとってもらったという。  借金は元利合計で1万5千円にも上っていた(しかし元金は1万円には満たな かった)、総理大臣の年俸が1万円という時代である。 義兄原邦三郎が、東 京で高利貸と交渉に当るが、その滞在中に脳溢血で32歳で死亡した。 邦三 郎は孝四郎に内緒で、借金の返済をしていたが、その死後、遺志を継いだ代理 人や知人たちのおかげで1万円を支払うことで片がついた。

 この件は、孫三郎が青年期において深く自省した最初の大転機であり、生涯 の呵責であったにちがいない。 東京の下宿仲間の友人、11歳年上の森三郎(高 等商業学校(現一橋大学)学生)は、二宮尊徳の『報徳記』を送ってくれ、倉 敷で悔恨と自責の日々を送っていた孫三郎は、読書に多くの時間を費やすよう になり、福沢諭吉の『学問のすゝめ』『福翁百話』『西洋事情』『文明論之概略』 なども読んだ。 東京遊学後の謹慎中、自家の小作人の田畑をまわり、その生 活状況などを直接見聞した際にも、孫三郎は自分の過去の行いと境遇を顧みた と思われるという。

孫三郎の小学校時代の親友で、倉敷の老舗の薬種商、林源十郎は同志社で学 んだ信仰の厚いクリスチャンで、家業に熱心な人格者として周囲の尊敬を集め ていた。 林は孫三郎に聖書を読むことを勧め、岡山孤児院の運営に奮闘して いた石井十次を紹介した。 孫三郎の精神と人生は、十次との交流によって大 きく転換していくことになる。