ヴォーリズ夫妻と広岡浅子2021/06/01 07:04

 ウィリアム・メレル・ヴォーリズは、明治13(1880)年アメリカ合衆国カンザス州レブンワース生まれ、1900年コロラドカレッジの理工系課程に入りYMCA活動を開始、1902年学生宣教義勇軍大会の講演に感激し、外国伝道への献身を決意、文系課程に転じ、1904年コロラドカレッジ哲学科を卒業、コロラドスプリングスYMCAの主事輔となる。 明治38(1905)年、滋賀県立商業学校の英語科教師として来日。 明治40(1907)年、近江ミッション(近江基督教伝道団)を創立した。

 一柳(ひとつやなぎ)満喜子は、明治17(1884)年元播磨小野藩主、貴族院議員一柳末徳の三女として誕生。 父・末徳は上京して慶應義塾に学び、ヘボンやフルベッキらから西洋事情を聞き、キリスト教にも関心を抱いた。 母・栄子は幼い頃他界したが、満喜子が通ったミッション系の櫻井女学校(現・女子学院)幼稚園の矢島楫子(かじこ)や宣教師たちの影響もあり日本で最初に洗礼を受けた四人の華族婦人の一人だった。

 満喜子の兄、一柳末徳の次男恵三は明治9(1876)年生まれ、東京帝国大学在学中に、明治34(1901)年広岡浅子の娘・亀子と結婚し、広岡家の婿養子となった。 満喜子は、19歳から大阪の広岡家で、恵三と亀子の間に生まれた娘たちの世話をしながら、広岡浅子とも家族同様に暮らした。 満喜子は、神戸女学院卒業後、日本女子大学校で助手として勤務していたが、明治42(1909)年渡米、津田梅子が卒業したペンシルベニア州の名門校ブリンマー大学に学んだ。 アメリカで8年を過ごし、大正7(1918)年帰国、再び広岡家で浅子とともに過ごした。 満喜子が留学している間に、恵三は広岡銀行頭取、大同生命第二代社長に就任していた。 恵三の複数の邸宅を設計するために招かれたウィリアム・ヴォーリズとの打ち合わせの通訳を満喜子が務めるという運命的な出会いがあり、広岡浅子の後押しもあって、結婚することになった。

 大正8(1919)年1月14日に広岡浅子は亡くなったが、6月ヴォーリズと満喜子の結婚式が、ヴォーリズが設計して明治学院のチャペルで挙げられ、披露宴はこれもヴォーリズ設計、麻布の広岡家別邸で開催された。 満喜子は、ヴォーリズの主宰する近江ミッションに加わり、結婚後は近江八幡で生涯を過ごした。 日本で数多くの西洋建築を手がけたウィリアム・メレル・ヴォーリズは、日米開戦の昭和16(1941)年に日本国籍を取得し、「米国から来て留まる」一柳米来留(ひとつやなぎ めれる)と改名した。 ヴォーリズは昭和39(1964)年5月7日に83歳で、満喜子は5年後の昭和44(1969)年9月7日に85歳で亡くなり、近江八幡市北之庄町の恒春園に葬られた。 夫婦の間に子供はなかった。

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