日本は、英国が支配する世界秩序に組み込まれた ― 2022/11/11 07:04
NHKスペシャル「新・幕末史 グローバル・ヒストリー」の第一集「幕府vs.列強 全面戦争の危機」。 続いて、マネー・ウォーズ、貿易と金融の戦い。 英国は、その金貨を国際通貨として世界中で使わせていた。 日本は大量の金を保有し、自立した経済圏を築いていた。 ハリー・パークス駐日公使は、これを切り崩し、英国の掲げる自由貿易圏に組み込むことが使命と考えて、関税の引き下げに取り組む。 条約は関税2割で合意していたが、交渉によって幕府は引き下げに同意する。 勘定奉行小栗は、金の含有率を下げた万延二分金(金28%、銀71%)を鋳造、インフレが起き、円安状態、輸入は進まず、国内を保護した。
薩長同盟の背景には、世界情勢の大変化があった。 アメリカで南北戦争が終了、イギリスの武器商人は日本市場に目をつけた。 それが幕府・長州の戦争を激化させた。 水面下で、英国は長州に武器を提供、後装填でライフリングのあるカラベイン銃は、キル・レート(殺傷率)が高い。 ジャーディン・マセソン商会は、イギリスとの貿易に積極的な大名を支援した。 幕府軍は10万人の兵力で、長州に4方向から攻め寄せた。 下関には幕府艦隊を集結させたが、イギリスはこの戦局に介入、下関は貿易船の通り道、海上交通の要衝なので、下関での戦争を回避するように申し入れた。 貿易船が戦闘に巻き込まれれば、それを口実にイギリスが全面的に戦争に介入してくる恐れがあった。 幕府艦隊は下関を離れ、長州軍の奇兵隊は小倉の幕府本営に攻め込み、その武器が猛威を振るった。 幕府軍は敗北した。
幕府は、フランス(レオン・ロッシュ公使)に接近して、イギリスに対抗しようとする。 1867(慶応3)年、フランス軍事顧問団指揮の下、幕府の精鋭部隊が始動、武器の輸入も計画した。
ロシアは、樺太(サハリン)に兵士を送り込み、実効支配しようとした。 イギリスのパークス公使は、大英帝国の権益を守るために、日本の統治方法を変える必要を痛感、強力な統一政権が誕生すれば、ロシアに狙われることもなくなると考えた。 薩摩は「天皇中心の政治に変えるべき」と主張。 幕府は意のままにならない。
1867(慶応3)年、パークス書簡(ケンブリッジ大学蔵)。 幕府の武器購入計画の資金源に圧力をかける。 フランスとの契約は、ロンドンの銀行からの融資が条件だったので、その銀行に圧力をかけ、融資を止めさせた。(昨年の大河ドラマ『青天を衝け』に、この一件があり、「徳川慶喜、パリ万博大作戦~600万ドルを確保せよ」<小人閑居日記 2021.7.4.>、薩摩藩の妨害で600万ドル調達に失敗<小人閑居日記 2021.7.5.>を書いた。)
倒幕勢力を抑えきれなくなった徳川慶喜は、大政奉還する。 1868年1月の慶喜・パークス会談で、慶喜は「平和的な解決を望む、この身はどうなってもよい」と述べた。 小栗忠順の闘いも、幕を下ろした。
シカゴ大学のケネス・ポメランツ教授(グローバル経済史)は、「幕末日本がこういう運命をたどったのは、国内の政争に加え、世界の覇権を左右するホットスポットだったからだ。究極的に言えば、この時日本は、イギリスが支配する世界秩序に組み込まれた」と言う。
軍事、経済、外交、あらゆる手段を駆使して覇権を握ろうとしたイギリス、植民地を始め、数多くの国や地域に大きな影響を与えた。 日本では、260年続いた幕府が滅亡、天皇を中心とする政治体制が始動する。
英国の「局外中立」推進、プロイセンの蝦夷植民地計画 ― 2022/11/12 07:02
NHKスペシャル「新・幕末史 グローバル・ヒストリー」第二集(10月23日放送)は、「戊辰戦争 狙われた日本」。 イギリスは、徳川を見限り、新政府を支持する方針を固めた。 ヴィクトリア女王は天皇宛書簡で、新政府承認の方針を示した。 一方、徳川はフランスの支援を受ける。 強国同士のパワーゲームの中、1年5か月に及ぶ泥沼の内戦が始まる。
慶応4年1月3日(1868年1月27日)、鳥羽伏見の戦いで、戊辰戦争が始まる。 これまで近代兵器を有する新政府軍が、時代遅れの徳川旧幕府軍(大政奉還後は、旧幕府)を圧倒したと伝えられてきた。 しかし、実際の戦いは旧幕府軍の凄まじい砲撃の跡が、妙教寺に残っている。 四斤山砲の砲弾(フランスで開発されたばかり)が、位牌棚から飛び込み、柱を貫通している。
イギリスのパークス公使は、2月16日各国代表(仏、米、プロイセン、蘭、伊)と6か国会談、「局外中立」の宣言を提案する。 仏、蘭は旧幕府との関係が密で難色を示したが、3日間の議論で、パークスは公使たちにとって最重要の使命である自国民の保護を持ち出した。 4か所の貿易港の内、長崎と兵庫は新政府、横浜と箱館は旧幕府が支配しており、一方を援助すれば、反対勢力が外国人の保護をやめる恐れがあるとした。 アメリカが「局外中立」の賛成を表明、6か国は共同で「局外中立」を宣言した。
戦局は大きく変わった。 アメリカは、最新の軍艦の引き渡しを凍結した。 フランスは、軍事顧問団を撤退させた。 慶喜は、新政府への恭順を決意した。 1968年5月、江戸無血開城。
東北、新潟の諸藩が、奥州越列藩同盟を立ち上げる。 もともとは新政府と対立する会津・庄内藩を守るための軍事同盟だったが、明治天皇につながる皇族を擁立(吉村昭『彰義隊』から、『彰義隊』と「輪王寺宮」能久親王<小人閑居日記 2022.8.31.>を書いた)、強力な地方政権へと姿を変える。
プロイセン(後のドイツ帝国)が動き始める。 首相のオットー・フォン・ビスマルクが鉄血政策をとり、軍備を増強してヨーロッパで領土を拡大していき、東アジアに目をつけた。 駐日プロイセン代理公使のマックス・フォン・ブラントは、1868年「東北の同盟軍は、新政府軍に対して勝利を収めるだろう」と報告。
激戦地だった新潟県朝日山で、小千谷市の協力を得て、発掘調査したところ、エンフィールド銃(ミニエー銃)の弾が出土した。 南北戦争の主力兵器だ。 プロイセンはイタリアなどとともに、新潟を貿易港として開港させる。 一人の商人が、ライフルおよそ5千丁の多数を売った。 長岡藩家老河井継之助はガトリング砲(機関銃)を使ったが、日本に3門しかなく、そのうち2門が列藩同盟の手にあった。 戊辰戦争は、近代戦になっていた。
プロイセンには、北への野望があった。 ブラント報告「蝦夷の気候は、北ドイツと似ており、米、トウモロコシ、ジャガイモ、あらゆる農作物が成長し、150万人のドイツ移民を受け入れることができる。植民地にふさわしい。」
幕末、幕府の直轄領だった蝦夷の警備を担ったのが、会津や庄内など東北諸藩だった。 ブラントの元通訳、ハインリッヒ・シュネルが東北に潜入、武器取引を通じて、列藩同盟の信頼を得る。 会津と庄内に、軍資金を貸し付け、代償として、蝦夷の権利を譲り受けようとする。 ビスマルクは、ブラントに交渉の権限を与えた。(1868年プロイセン海軍の機密文書)
新政府に肩入れするイギリスのアーネスト・サトウは、新政府軍の新潟港海上封鎖を支持する。 1868年9月、新政府軍は海上封鎖し、電撃的な上陸作戦を決行する。 新潟を守備していた列藩同盟の部隊は壊滅する。
11月6日、会津藩が降伏。 まもなく東北全土が新政府軍に下る。 プロイセンの蝦夷植民地計画も消えた。
英国、今度は「局外中立」撤廃を提案 ― 2022/11/13 07:06
榎本武揚が開陽丸を旗艦にして箱館五稜郭を占領、新政府軍と対峙した。 ロシアは、日本との国境が未確定だった樺太(サハリン)に住民を移住させ、「ロシア化」に着手する。 イギリスは、ロシアと榎本が結びつき、蝦夷に南下してくることを警戒した。
パークスは、横浜に停泊していた新型艦ストーンウォール、幕府がアメリカから購入したが、「局外中立」で引き渡しが凍結されていた、14センチの鉄板、不沈艦に注目する。 1969年1月18日、外国代表の会議で、パークスが「局外中立」の撤廃を提案。 プロイセンなどは、まだ榎本の抵抗中だとして反対。 パークスは、徳川将軍が降伏した以上、家臣も降伏すべきで、榎本は反乱分子に過ぎない、内戦を終結した新政府こそ唯一の合法政府だと主張。 2月、「局外中立」は撤廃される。
6月、ストーンウォールを旗艦とする新政府艦隊が箱館を攻撃。 ストーンウォールには、イギリス人が乗りこんでいた。 6月27日、榎本降伏。 「我らは薩長に敗けたのではない。イギリスに敗けたのだ」(1969年、榎本がアメリカ領事に語った記録)。 戊辰戦争は、イギリスの思惑通り、新政府の勝利に終わった。
シカゴ大学のケネス・ポメランツ教授(グローバル経済史)、「戊辰戦争を乗り越えたからこそ、日本は変化を遂げ、前に進むことが出来た。次の時代、日本は独立したプレーヤーになる。そして世界のグレートゲームを動かしてゆくのだ。」
幕末日本。 地球規模の覇権争いに直面しながら、新たな道を切り開いた。 私たちは幕末につながる時代を歩み続けている。 と、「新・幕末史 グローバル・ヒストリー」第二集は、終わった。
ストーンウォール号は、東艦、甲鉄艦 ― 2022/11/14 07:05
ストーンウォール号が気になった。 ストーンウォール号は、東艦(あずまかん)、甲鉄艦(こうてつかん)として知られる。
元をたどると、アメリカの南北戦争中の1863年に南軍がフランス・ボルドーのアルマン兄弟造船所にエジプトからの注文と偽装して発注した軍艦で、仮称艦名は「スフィンクス」だった。 北軍の抗議で引き渡しができなくなると、1864年3月第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争中のデンマークに売却されることになったが、戦争で劣勢となったデンマークに引取りを拒否され、南軍の手にわたって、南北戦争終結により1865年「ストーンウォール」と改名されキューバに、続いてアメリカ合衆国に売却された。 それを徳川幕府が購入することになる。 (その件は福沢に関連して、慶応3(1867)年、軍艦受取委員の実相<小人閑居日記 2021.12.10.>参照のこと。)
慶応4(1868)年、戊辰戦争が勃発、横浜に至った「ストーンウォール」を新政府側も買い取りたいと言い出し、旧幕府側が反発、アメリカは戦争終結までは「局外中立」を宣言した。 奥州越列藩同盟が崩壊して、明治新政府が認められると「局外中立」を撤廃、明治2(1869)年2月3日まだ財政が厳しかった新政府は、「ストーンウォール」(甲鉄艦)の購入に踏み切った。
旧幕府海軍は、旗艦の開陽丸を明治元(1868)年11月江差に停泊中に荒天のため座礁で失った上、明治政府の「ストーンウォール」(甲鉄艦)購入の知らせが箱館に届くと、危機を感じた榎本らは、同艦への移乗攻撃による奪取作戦を計画した。 明治2年3月25日(1869年5月6日)の、宮古湾海戦となるのだが、それはまた明日。
甲鉄艦奪取を狙った宮古湾海戦 ― 2022/11/15 07:08
旧幕府海軍の作戦計画は、斬り込みのための陸兵を乗せた回天、蟠竜、高雄の3艦が外国旗を掲げて宮古湾に突入し、攻撃開始と同時に日章旗に改めて甲鉄艦(「ストーンウォール」)に接舷、陸兵が斬り込んで舵と機関を占拠しようとするものだった。 回天には総司令官として海軍奉行・荒井郁之助、検分役として陸軍奉行並・土方歳三らが乗船、元フランス海軍のニコール(計画立案者)、コラッシュ、クラトーら、斬り込み隊として神木隊・彰義隊など100名の陸兵もそれぞれ3艦に乗り込んだ。 艦長は回天・甲賀源吾、蟠竜・松岡磐吉、高雄・古川節蔵(福沢諭吉と関係の深かった岡本節蔵、古川正雄で、明日詳述する)。
3月22日、寄港地の鮫村(八戸市)から宮古湾を目指して南下するが、その夜暴風雨に遭い、3隻は離散する。 24日、嵐がやや静まり、回天と高雄は合流できたが、高雄は機関を損傷していて修理を要し、2艦は宮古湾の南、山田湾(岩手県山田町)にアメリカ国旗とロシア国旗を掲げて入港した。 蟠竜は互いを見失った時の取り決めで、鮫村沖に待機していた。 山田湾で、新政府艦隊が宮古湾鍬ケ崎港に入港しているという情報を得て、回天と高雄の2艦で計画を実行することにした。 高雄が甲鉄艦を襲撃し、回天が残りの艦船を牽制するという作戦で、決行は25日夜明けとした。
だが、宮古湾に向かう途上、高雄が再び機関故障を起こす。 しかし航行は可能だったので、まず回天が甲鉄艦に接舷して先制攻撃し、高雄が途中で参戦する作戦に変更した。 午前5時頃、回天は宮古湾に突入を敢行、新政府艦隊は機関の火を落としており、アメリカ国旗を掲げた回天の接近に注意を払わなかった。 日章旗を掲げ甲鉄艦に接舷すると、ようやく隣で唯一警戒に当たっていた薩摩船籍の春日から敵襲を知らせる空砲が轟いた。
奇襲には成功したが、回天は舷側に水車が飛び出している外輪船で横づけできず、小回りが利かなかったため、甲賀源吾艦長の必死の操船にもかかわらず、回天の船首が甲鉄艦の左舷に突っ込んで、乗り上げる形になってしまった。 高い位置の、狭い船首から飛び移ることになり、斬り込む人数が限られ、またガトリング砲など強力な武器の格好の標的になってしまった。 回天甲板上で倒れる兵が続出し、ニコールも負傷した。 春日を始め周囲にいた新政府軍艦船も、次第に戦闘準備が整い、回天は敵艦に包囲されて、集中砲火を浴びる。 甲賀源吾艦長は腕、胸を撃ち抜かれてもなお指揮をとっていたが、頭を撃たれて戦死。 形勢不利と見た荒井郁之助が作戦中止を決め、自ら舵を握って甲鉄艦から船体を離し、回天は宮古湾を離脱した。 甲鉄艦に斬り込んでいた野村利三郎ら数名は、撤退に間に合わず戦死。 この間、わずか30分だったという、明治2年3月25日(1869年5月6日)の、宮古湾海戦である。
新政府軍は、直ちに追撃を開始、回天は撤退途中に蟠竜と合流して26日夕方には箱館まで退却したが、機関故障を起こしていた高雄は甲鉄艦と春日によって捕捉された。 艦長・古川節蔵以下95名の乗組員は、田野畑村付近に上陸し、船を焼いたのちに盛岡藩に投降している。
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