榎本助命、福沢の計略と黒田清隆2022/11/23 07:18

 維新の元勲のうち、最も早く福沢に接近したのは、薩摩の黒田清隆だろう、と富田正文先生の『考証 福澤諭吉』下にある。 その当時は、黒田が福沢の家に来れば、福沢も黒田の家に行ったこともあるという。 黒田は五稜郭に立てこもった榎本武揚の追討軍参謀として箱館に赴き、五稜郭陥落の前夜に「皇国無二の宝書」をむざむざ戦火に失うに忍びないとして、榎本から『万国海律全書』を贈られ、籠城の将士の労苦をねぎらって清酒五樽を返礼として届けたという陣中美談が残っている。

 ある日、新政府の筋の人が二冊の蘭書を福沢のところに持ってきて、訳してくれないかと頼んできた。 見ると俗に『万国海律全書』と呼ばれる海上国際法の写本である。 フランス人オルトランの原著を、榎本武揚のオランダ留学中の教師フレデリクスが全文をオランダ語に翻訳し、これを浄写させ、背皮の美しい装幀に仕立てた二冊の稿本で、表紙の背とタイトル・ベージと序文だけが活版で印刷され、本文はすべてペン書きである。 その序文に、師フレデリクスより日本留学生榎本釜次郎に贈る旨が記されている。 かねて噂に聞いていた、五稜郭陥落の前夜に榎本から黒田清隆に贈られた、榎本の講義筆記に違いない、これは面白い、蘭文翻訳はたやすいことだが、先方に気を持たせるように、初めの方、4、5枚だけ丁寧にわかるように翻訳して、原本に添えて返してやって、これはいかにも航海にはなくてはならぬ有益な書に違いない、巻初の訳した所を見てもわかる、ところが版本の原書ならば翻訳もできるが、講義筆記であるから、その講義を聴聞した本人でなければ、なにぶんにもわかりかねる、まことに惜しい宝書でござる、と言った。 福沢は、榎本の筆記と知りながら、知らぬ風をして、ただ翻訳の云々で気をもませて、自然に榎本の命が助かるように、いわば伏線の計略を巡らせたのだった。

 もちろん福沢が代作した老母の嘆願書や、榎本に翻訳させる計略だけが、功を奏したわけではない。 長州の要人たちは死刑説を主張したが、黒田清隆は極力榎本をかばって、時にはみずから髪を切って坊主頭になったり、時には腹を切るとまで極言して、榎本の助命のために奮闘し、ついに寛典に処することに決定し、明治5(1872)年1月6日、榎本は特赦により出獄、3月6日放免された。 同月8日には黒田が次官を務めていた開拓使に、四等出仕として任官する。 西郷隆盛も、黒田の勇力を高く評価する書簡を残しているそうだ。