手紙から知る福沢の日常生活2007/02/12 07:17

 「福澤諭吉の手紙 朗読会」は、あと六通。 ここまでやれば、残りも書かな い訳にはいかない。 つぎの二通を幼稚舎生が群読したのは、幼稚舎に関係す るからだった。 明治12,3年頃11月19日の幼稚舎長・和田義郎あて、女児 への英語教育開始を評価したついでに、日本書、習字、画学、英語学などの女 児の授業をなるべく午前中で終わらせるように依頼している。 ほかに稽古事 もあり、遊びもしたいから、なるべく都合のよいように、いやがらせないこと が専一と、甘いことを言っている。 当時福沢の二人の娘、房、里が通ってい た。  明治31年5月9日の大隈重信あて、鎌田栄吉の塾長就任と黒船ペリー提督 の従孫トーマス・S・ペリーが文学科主任教授として来日したことを披露する 園遊会の招待状。 5月16日午後正2時より、開催場所は芝区三光町福沢別邸 (旧狸そば)、つまり現在の幼稚舎のある場所だ。 小幡篤次郎、鎌田栄吉との 連名だが、篤次郎の「とく」を「あつ」と読んだのは、残念だった。

 この会の三番目に塩澤修平経済学部長が朗読した神戸の次男捨次郎あて、明 治23年6月19日の手紙も、家庭における福沢の様子がよく分かる。 刀が好 きなので「広助」という銘の脇差を買い取り、手に取ったところつい鞘ばしっ て指に怪我した(手紙には指の絵がある)。 「一家内へおとッさんの評判甚だ 宜しからず、以来は刀剣をひねくること相成らずとて、すべて箱の中に隠され 候」「生涯何かの話のついでに、あの怪我は怪我はと囃し立てられては誠に困る と、子供へ談判中なり」。(塩澤経済学部長は、去年8月の小泉信三記念講座で 『清富の思想』という講演を聴いた。8.24.-25.の日記参照)

演劇サークルの大学生二人井上和子さんと中村良法君が、『時事新報』の創刊 を決意したことを三菱会社に勤務する愛弟子荘田平五郎に伝えた明治15年1 月24日の手紙と、年不詳8月31日付中島精一あての詫び状を朗読した。 中 島精一は慶應義塾出版社の事務の責任者、使いの者が書状を運ぶための「状箱」 の返却を再三福沢に催促していたが、福沢はそんな物は知らないと言っていた。  それが箪笥の開きから出て来て、「平身低頭恐れ入り候」と、正直に謝っている。

 最後の一通は、紺野美沙子さんが朗読した。 明治32年8月3日、すぐ上 の姉、服部鐘あて。 福沢が最初に脳溢血で倒れた明治31年9月26日から、 ほぼ10か月後、初めて書いた手紙。 「人間百事知るがごとく忘るるがごと く、真に及ばざるものにござ候」とある。 福沢自筆の手紙は、この後、明治 34年2月3日に亡くなるまでの間、同じ服部鐘あての明治33年10月14日付 の一通しか判明していない、という。 『福沢諭吉の手紙』の解説に「8月8 日に一時人事不省に陥ったが回復したので安心するように伝えた、70字強の短 いものである。苦しい中でも自ら筆を執り姉に手紙を認めていることから、家 族に対する深い思いが知れる」とある。