『広辞苑』の【福沢諭吉】<等々力短信 第988号 2008.6.25.> ― 2008/06/25 07:18
15日、紫陽花真っ盛りの鎌倉極楽寺の成就院で開かれた、小尾恵一郎ゼミ OB会「紫陽花ゼミ」で、光栄にも「福沢諭吉」について話をさせてもらった。 柱の一つに、『広辞苑』【福沢諭吉】に苦情を言う、を選んだ。 『広辞苑』第 六版には、こうある。 『ふくざわ‐ゆきち【福沢諭吉】思想家・教育家。豊前中津藩士の子。緒方 洪庵に蘭学を学び、江戸に洋学塾を開く。幕府に用いられ、その使節に随行し て三回欧米に渡る。維新後は、政府に仕えず民間で活動。一八六八年(慶応四) 塾を慶応義塾と改名。明六社にも参加。八二年(明治一五)「時事新報」を創刊。 独立自尊と実学を鼓吹。のち脱亜入欧・官民調和を唱える。著「西洋事情」「世 界国尽」「学問のすゝめ」「文明論之概略」「脱亜論」「福翁自伝」など。(一八三 四/一九〇一)』
手元の第四版もほぼ同じで、「豊前中津藩の大坂蔵屋敷で生まれ」、「江戸に蘭 学塾を開き、また英学を研修」とあり、「(幕府)に用いられ」の句がないのが、 違うだけだ。
苦情の第一は、福沢の生年の西暦、「一八三四」。 福沢が生れたのは天保5 年12月12日だが、西暦では1835年1月10日に当る。 天保5年の大部分 は1834年にはなるけれど…。 そして『福翁自伝』などの福沢の年譜は、数 え年で書かれているため、天保5年暮の生れは、満年齢より二歳多くなる嫌い がある。 塾創立は実に満23歳。
第二は、「独立自尊を鼓吹。のち…」。 福沢は晩年の大患後、近代化に伴う 国民の道徳水準を心配して、高弟達に「修身要領」29条を編纂させた(明治 33(1900)年2月24日発表)。 その中心にすえられたのが「独立自尊」だっ た。 福沢は、この四字熟語を明治23年8月の『時事新報』社説や明治30年 6月の演説で使ってはいるが、その根本思想を表すものとして一般化したのは、 あくまでも明治33年以降なのだ。
第三は、「脱亜論」と「脱亜入欧」。 著書の中に「脱亜論」があるが、「脱亜 論」は明治18(1885)年3月16日の『時事新報』社説の題目で、本ではない。 「『脱亜入欧』を唱えた」とあるが、丸山真男さんによれば(『三田評論』昭和 59年11月号の座談会「近代日本と福沢諭吉」)、福沢は「脱亜」という言葉は、 この社説の題目に一度使っただけだし、「入欧」という言葉は使っていない。 戦 後、この「脱亜論」と「脱亜入欧」のレッテルを貼って、福沢はアジアを蔑視 し、大陸侵略的だったと批判する人々が現れた。 一人歩きしたそのレッテル に『広辞苑』は引きずられている。
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