新幹線が走り出し『街道をゆく』が始まる2008/06/26 06:39

 福沢から離れるけれど、司馬遼太郎さんは続く。 司馬さんが亡くなって12 年、今年も2月12日の命日に「菜の花忌シンポジウム」が日比谷公会堂であ って、それを4月20日にNHKが「日曜フォーラム」で放送したのを見た。 テ ーマは「『街道をゆく』―この国の原景」、出席は井上ひさし、諸田玲子、佐野 真一の各氏、コーディネーターは古屋和雄アナだった。 興味深かった発言を 少し紹介する。

 井上ひさしさん…司馬さんが『週刊朝日』に『街道をゆく』の連載を始めた のは、1971(昭和46)年1月からで、新幹線が走り出してから書き始めた。  資料を読んで、司馬さんの言葉に醸造し直して、出てくるところに、同業者と して舌を巻く。 新幹線、だれかの都合でこんなに忙しくなっている。 自分 のためじゃない。 会社が言っているから。 JRは、どこでも同じ駅をつくっ ている。 「新」がつくとダメだ。 横浜、大阪、神戸。 利便性だけを追求 して、国土も心も平板化してツルツルになったのが、現状だ。

 佐野真一さん…昭和30年代中葉からの高度成長を考える時、国土の3倍の 満州という人造国家を失ったことに思いがいく。 満州から帰ってきた人は皆、 満州はよかったという。 日本人の夢を開いたのは確かだ。 失われた満州の 夢を、日本に取り戻すゲームが高度経済成長だったという仮説を立てた。 岸 信介(満州国高官から、首相・日米同盟のはしり)、十河信二(満鉄のあじあ号 を走らせ、国鉄総裁として新幹線をつくった)を考えると、平仄が合う。 そ して沖縄を生贄にしながら、日本列島を保持した。 満州という時間軸、沖縄 という空間軸を、自分の中に置き、それがクロスした所に、我々が今、生きて いるんだということを、たえず考えていると、何かが見えてくる。