小満んの「三軒長屋」2011/10/06 04:38

 姐(あね)さん、二階を貸してほしいと、辰が来る。 六と、朔んべの喧嘩の 仲人(ちゅうにん)になり、手打をするのだという。 鳶の頭・政五郎は留守、 廓に居続けらしく、姐さんはイライラしている。  最近、剣術の先生の家と の真ん中、隣にやわらかいのが越して来た。 表の伊勢勘のハゲちゃびんの親 爺の妾で、いい女、愛嬌がある。 色白で、様子がいい、女の私も、湯の行き 帰りなんか、楽しみにしている。 伊勢勘の親爺の持ち物になったのは、お金 の勢いだ。 その女が何かあると、伊勢勘に吠えつく、血のぼせがすると騒ぐ。  姐さんは、みんなが表で待っているというので、辰、お前さえ呑まなければと、 二階を貸してくれた。

 連中、隣の女を見たくて、与太に「政五郎の家はどこでしょう」と、聞きに やる。 与太は「隣の政五郎の家はどこでしょう」とやる。 二階から覗いて いると、お妾でなく、女中が出て来た。 「飯炊き、芋俵、ツラが真ん丸、団 子っ鼻、お月見女、でけーケツだ」 泣くんじゃないよ、お暇を頂きたいって、 あら、旦那いらっしゃい。 相手が悪い、聞き流しておけ。 内緒だよ、「吹け ば飛ぶよなドブさらい」と「棒振り剣術」の家は「家質(かじち)」に入ってい て、もうしばらく半年足らずで「抵当流れ」、私の物になる、いくらか出せば、 すぐに出て行く、となだめる。 それを女中が、ちょろちょろっとしゃべった。

 鳶の頭・政五郎は羽織を出させ、剣術の先生楠運平の所へ、武者窓が切って あり、一刀流指南の看板。 これは、これは、隣家(りんけ)の侠客、ずずいっ とこれへ、石野地蔵、山坂転ン太、奥の間に控えておれ。 奥の間なんてない から、外へ。 こっちから先に仕掛けてやろう、と相談がまとまる。

 楠運平、伊勢勘の所へ行き、いささか都合があって転宅する。 門弟が増え て、手狭になった。 他流他門の「千本試合」をやる、中には真剣を使い、生 首や腕が飛び込むかもしれないので、よく戸締りを、と。 お引越料はいかほ ど、価五十金。 手前に用立てさせて下さい、お返しがなくても結構。 五十 金受け取り、明日早々転宅致す、と。

 頭も伊勢勘の所へ来て、よんどころない事情で引越すので、「花会(はなげえ)」 をやる。 一世一代のつもり、薦被りを開け、マグロの土手をころがし、刺身 包丁を置いておいて、勝手にやらせる。 喧嘩騒ぎで、血を見るかもしれない ので、よく戸締りを、と。 親父さんの頃は出入りしていたんじゃないか、知 恵が浅すぎるぞ、お若え、お若え、いくらいるんだ。 五十金、くれてやる、 花会なんてやるな。 引越先より、改めて、ご挨拶いたします。

 鳶の頭と、剣術の先生が、どこへ越したかは、ご存知の通り。

「西岡秀雄先生 お別れの会」2011/10/07 04:37

 10月1日の土曜日、慶應三田キャンパスで、文化地理研究会三田会有志の会 の皆様のお世話により、8月1日に97歳で亡くなられた西岡秀雄先生の「お別 れの会」が開かれた。 ご長男の西岡信雄さん、長く先生の秘書を務められた谷 珠得孔さんに、昭和30年卒から昭和43年卒までの文化地理研究会メンバー106 名が参加した。 第一校舎101教室での「お別れの会」の後は、南校舎4階「ザ・ カフェテリア」でカレーライスの昼食と歓談をした。 ほとんどが約50年ぶり の、懐かしい先輩方や若干の後輩達にお目にかかることができた。

 「お別れの会」では、西岡信雄さんのご挨拶と、谷珠得孔さんから先生の晩年 についてのお話があった後、「追悼の言葉」を先輩と若手ということで二名が述 べた。 同期の代表だった加藤隆康君が司会進行役だったため、「若手」のお鉢 が私に回ってきた。

 西岡秀雄先生は、何にでも興味を抱いて面白がる旺盛な好奇心、そしてユーモ アを尊ぶ気持をお持ちの方であった。 その影響は、この<小人閑居日記>に 色濃いのかもしれない。 私は8月19日の<小人閑居日記>「西岡秀雄先生、 「ありがとうございました」」に書いたようなことを、訥々と述べさせていただ いたのだが、そのマクラに振った部分だけを、紹介させて頂く。

 「昭和39年卒の馬場紘二でございます。 このお別れの会を企画し、準備し てくださった有志の会の皆様方にお礼を申し上げます。 たくさんの先輩諸兄姉 がいらっしゃる中で、(この「諸兄姉」という言葉も文化地理研究会で教えてい ただいた言葉でした…)まことに僭越ですが、若手のほうからも一人ということ でお話がありましたので、追悼の言葉を述べさせていただきます。 だいぶハゲ ておりますが、若手でございます。  「幻の門」という応援歌がありました。  「幻の門」も今は幻となっておりまして、二、三年下にいた銭高さんの、あの建 物が建っております。 「幻の門こゝすぎて 叡智の丘に我等立つ 三色の旗ひ らめけば 黒髪風に薫じつゝ つどう若人一万余」 あの頃、風に薫じさせてい た黒髪は現在、見る影もない状態となりました。 当時、経済評論家の三鬼陽之 助さんという人がカッパブックスで『慶應義塾』という本を出しました。 その 副題が忘れられません。 「その退潮も時の流れか…」」

「再起の記憶 刻んで~横浜 山下公園」2011/10/08 04:44

 「西岡秀雄先生 お別れの会」の終了後、同期の仲間と「社中交歡 萬來舍」 でお茶を飲んだ。 その席に二名しか参加していなかった一期下の二人も来た。  卒業以来会ったことのなかったその一人、学年代表を務めた斎藤秋造さんは、 しっかりとした、立派な顔の人物になっていたのだが、明日テレビに出ると言 う。 10月2日、日曜朝のNHK総合『小さな旅』「再起の記憶 刻んで~横浜  山下公園」という番組である。 横浜の生れ育ちであることは知っていたが、 食料品会社を経営するかたわら、もう18年も横浜市のボランティア・ガイド を務めているそうだ。 50歳からやっていた勘定になる。 番組は、その斎藤 秋造さんを中心にして、展開した。

 年間500万人以上が訪れるという山下公園、実は、ここは関東大震災で壊滅 した横浜のがれきで海を埋め立ててつくられた。 ホテル・ニューグランド前 の、海に面したバンドと呼ばれる通りが、昔の海岸線だったわけだ。 緑あふ れる公園は、がれきの上に1メートルの土を盛ってつくられており、その秘め られた歴史が紡ぎ出す、人々の絆に出会うというのが、番組の趣旨だった。 斎 藤さんは、新人ガイドの研修をし、関東大震災を経験した107歳のおばあさん の体験談をお仲間と聞きに行き、東日本大震災で被災し、修学旅行で訪れた宮 城県亘理町の中学校の生徒を案内して、横浜のこの事例を話し、復興の希望を伝え る。 横浜中央卸売市場のお店や、横浜の歴史を研究しているご自宅書斎も紹 介された。 文化地理研究会での経験を、こういう形で生かしている人がいる ことを知って、嬉しかった。

 横浜には、何かとご縁がある。 当日、斎藤さんには、私の横浜散歩(読売文 化センター)の先生、明治学院先輩のヘボン研究家、石川潔さんの話をした。 し かし、もうお一人、福澤諭吉協会で知り合った中村實さん(NHK文化センター 「横浜ぶらり旅」)が、文化地理研究会の先輩だったのを、西岡先生が亡くなっ た後で知ったことを、伝えもらした。

西岡秀雄先生の「気候700年周期説」2011/10/09 04:43

 「西岡秀雄先生 お別れの会」で、4年先輩の岡田民雄さん(日本ルツボ(株) 代表取締役会長)が、特に西岡秀雄先生の「寒暖の歴史 気候700年周期説」の 話をされた。 慶應には先生のこの研究を引き継いでいる研究者がいないのだ そうだ。 岡田さんは、お仕事柄、地球温暖化の問題に強い関心を持っておら れ、それに関連して西岡先生の「気候700年周期説」がもっと研究されるべき だと考え、われわれもそれに関心を持とうというお話だった。

 岡田さんは、私が大学に入った年に卒業されていて、文化地理研究会では入 れ違いのはずなのに、1年生の時にいろいろと引き回して頂いた思い出がある。  それほど家族的なクラブだったわけだ。 その岡田さんが、私のブログの西岡 先生や「気候700年周期説」について書いたものを読んで下さったという。 そ して、これからも勉強しようよ、と声をかけて下さった。 そこで取りあえず、 今までブログに、西岡秀雄先生について書いた<小人閑居日記>と<等々力短 信>を整理してみたので、ご参考までに最後に掲げる。

 私が、地球温暖化は炭酸ガスでなく太陽活動が原因とする説があると紹介し たのは、福澤諭吉協会で前神奈川大学学長桜井邦朋さんの講演を聴いて、「気候 700年周期説」を思い出したからであった。

 「西岡秀雄先生 お別れの会」で、秘書の谷珠得孔さんが言及されたのは、法 隆寺の金堂や五重塔が天智9(670)年の火災の以前に建てられたかどうかとい う論争に関する問題だろう。 奈良文化財研究所の光谷拓実、大河内隆之両氏 の「年輪年代法による法隆寺西院伽藍の総合的年代調査」(『仏教芸術』第308 号、2010年1月)という最新の研究がある。 両氏は、1950年代に早くも西岡 秀雄先生が法隆寺五重塔心柱や夢殿桁材の年輪計測によって再建説を否定した 先駆的研究をしている事実を、特筆している。

           記

太陽活動と地球温暖化<小人閑居日記 2005.9.26.>

「科学する心」理数系に弱い日本人<小人閑居日記 2005.9.27.>

西岡秀雄先生の『気候700年周期説』を探す<小人閑居日記 2008. 7.30.>

『寒暖の歴史 気候700年周期説』<小人閑居日記 2008. 7.31.>

地球温暖化は炭酸ガスでなく太陽活動が原因とする説<小人閑居日記 2008. 8.1.>

氷河期から縄文までも気候変動<小人閑居日記 2008. 8.2.>

太陽活動が歴史に影響した<小人閑居日記 2008. 8.3.>

好奇心の泉源、雑学の模範<小人閑居日記 2008. 8.4.>

『寒暖700年周期説』 等々力短信 第990号 2008(平成20)年8月25日

『気候700年周期説』と御神渡り<小人閑居日記 2010. 5.15.>

西岡秀雄先生、「ありがとうございました」<小人閑居日記 2011. 8. 19.>

「鎌倉仏教の繁栄、もう一つの秘密」<小人閑居日記 2011. 8. 20.>

桃太郎悪者論〔昔、書いた福沢1〕2011/10/10 04:52

 毎日、目新しいことを書こうとすると、息が切れることがある。 そこで、 一息入れる、手抜きの策を思いついた。 〔昔、書いた福沢〕を、ブログで、 つまりインターネットに公開する形で、残しておこうと思ったのである。 断 続的に、続けてみたい。 若書きで、恥ずかしいものもあるだろう。 その後 の研究で、補足できるものもあるかもしれない。 一石二鳥といくか、どうか。

  等々力短信 第94号 1977(昭和52)年10月5日

 鬼に掛け合わなければならないことのある人がいたら、ご一報下さい。 大 阪は河内長野市在住の詩人中村光行さんが主宰する「鬼の会」という愉快な団 体があって、悪者にされた鬼の無念をはらす為、善鬼をさがしていると聞き、 おせっかいにも福沢諭吉の「ひびのをしへ」の中にある文章を知らせて感謝さ れたからだ。  「ももたろふが、おにがしまにゆきしは、たからをとりにゆくといへり。け しからぬことならずや。たからは、おにのだいじにして、しまいおきしものに て、たからのぬしはおになり。ぬしあるたからを、わけもなく、とりにゆくと は、ももたろふは、ぬすびとともいふべき、わるものなり」

 それは桃太郎が奪った宝を私したことを卑劣として、法の下には桃太郎も鬼 も平等であり、たとえ鬼が悪いとしても法によって裁かれるべきであると、法 治国家における法の重さを教えた福沢らしい痛快な一文である。    (短信94・終)

 「ひびのをしへ」は、福沢諭吉が明治4(1871)年に8歳の長男一太郎と6歳 の二男捨次郎のために、日々守るべき事柄や暦など身近な知識を書き与えたも の。 加賀半紙で帳面をつくり、毎朝食後に二人を書斎に呼んで、子供たちが 楽しみに待つ中、一話ずつしたためたという。

 9月10日の「週刊ブックレビュー」の特集で、作家の奥泉光さんをゲストに、 彼が6人の編集委員の一人となった集英社の『コレクション 戦争×(と)文学』 (全21冊)の話をしていた。 奥泉光さんが担当した第5巻『イマジネーション の戦争』に、小松左京「春の軍隊」、星新一「白い服の男」、筒井康隆「通いの 軍隊」などといっしょに、芥川龍之介の「桃太郎」が収録されているという。  芥川龍之介に「桃太郎」があることを、知らなかった。 ぜひ、読んでみたい と思った。