光源氏になろうとした殿様2014/10/01 06:39

 池田綱政は、一から十まで、なにもかも公家風にならい、武家風を蛇蝎のご とく嫌った。 公家が和歌を詠み、絵筆をとると聞けば、すぐに、それになら う。 蹴鞠が公家のたしなみと知れば、公家の飛鳥井家の門に入り、鞠を蹴る。  京に憧れ、公家の衣装を自室にそろえて眺め、時折、着てはうっとりした。

 『土芥寇讎記』は、「綱政、文盲不才をもって、政道雅意にまかせば、年を経 ずして、三十万石余を失わん」としつつも、「綱政、愚かなれども、悪事なきは、 猿知恵あるには、まさりなん」と、ずる賢い大名よりは、よほどましだと、幕 府は彼に警戒心を持たなかった。 これを綱政が馬鹿のふりをしていたのだと 見る説もあるそうだが、磯田さんはそうは考えない。 ただ、女と遊びが好き であっただけだろう、と言う。

 綱政の公家好きは、彼の女好きと表裏一体のものであった。 綱政の正室は、 陸奥国二本松藩主・丹羽光重の娘であるが、彼女への興味が続いたのは、ほん の五、六年で、嫡男だから父・光政もうるさく、三人の娘を作った。 綱政は すぐにこの正室の侍女に手を出し、さらに家督を継ぐと、水を得た魚のように、 好き勝手をはじめ手あたり次第に女を物色しはじめ、贅沢も始めた。 岡山城 の奥向きは、それまで光政の好みで、質素を極めていた。 綱政は、その質実 剛健な家風を一代で変えてしまった。

 綱政は岡山城の奥向きを、平安の王朝絵巻に変貌させた。 田舎の岡山に、 自分だけの『源氏物語』の世界を作り、その住人になろうとした。 そこには 雅やかな京言葉で、ともに語らう「上臈(じょうろう)」が欲しい、親しい公家 の伝手を頼り、教養のある美しい女を次々と集めた。 玉岡、幸品(たかしな)、 梅辻……、岡山城中は大勢の京女であふれ、京言葉が飛び交った。 綱政は盛 んに恋歌を詠み、昼となく夜となく、彼女たちを抱いた、という。

 綱政時代の岡山城本丸絵図をひらくと、「長局(ながつぼね)」と呼ばれる細 長い殿舎が描かれている。 側室たちを入れていた同じ拵えの部屋が七つ、ず らりと一直線に並んでいる。 まるで養鶏場のケージのようで、いささか気持 ちが悪い、と磯田さん。 綱政は、側室だけでなく、側室の各部屋にあった竈 (かまど)を炊いているような末々の女中にまで、手をつけた。 綱政には、 身分が低すぎて、系図に母の名が載せられない子が、七十人のうち五十五人も いる。 『池田家履歴略記』には「世につたえて、曹源公の御子七十人おわせ しという。今、ここに載るところ、男子二十一人、女子三十一人。」

 早稲田の図書館の「池田家文書」のマイクロフィルムの中から、「綱政の遺言」 とおぼしきものが出て来た。 嫡男の池田継政に言い残したもの。 一行目に 「国家政治を専ら心がけ、なまけてはいけない」、それに書き加えて「仁愛慈悲 第一の事」。 「武芸は何によらず、上手になろうと望んではいけない。芸を覚 えるまでにしておくのがよい」。 そして、兄弟仲良くせよ、実母の幸品を大切 にせよ、彼女だけでなく、彼女の家族にも厚く情をかけよ、とつづける。

 磯田道史さんは結論する。 綱政の信条は「仁愛・慈悲」、女を抱きつづけ、 世間から馬鹿殿様と揶揄されつづけた男の芯にあった唯一の思想は、これだっ た。 彼が遺言に書き残した最後の指示は、「墓に埋めるときは、公家風の衣冠 をきちんと着せてくれ」。

 磯田さんが、綱政の遺書を読み終えて、早稲田の図書館を出ると、外はすっ かり暗くなっていた。 夜空を見上げると、そこには、澄みきった美しい月が わけもなく、ぽっかりと浮かんでいた。  このように書く歴史学者は、私の好みである。