関ヶ原の戦いと前田利長の動き2014/10/21 06:30

 磯田道史さんは、前田利長が一見、愚鈍にみえて、実は賢い、と言う。 自 分に徳川家康とやりあう器量はない、ないとするならば、どうすればよいのか。  そのあたりの見積もりの確かさと、適切な判断力が、利長にはあった、とする。  関ヶ原で、石田三成の西軍と徳川家康の東軍がぶつかった時も、一貫して「三 州割拠」の方針を貫いた。 とりあえず、徳川の東軍に味方するものの、徳川 を大勝させないように、巧妙に動くことを考えた。

 前田軍三万人が金沢城を出て南下し、福井を過ぎ、木の芽峠を越えて、琵琶 湖に出て、西軍・石田方の背後に突如、出現すれば、東軍・徳川方の勝利は確 実であった。 そのため、家康は利長に猛烈に書状を送り、「前田南下」作戦を 実行するよう求めた。 利長の弱点は、母のまつを人質に取られていることだ った。 利長は、母親のまつが、たまらなく好きであった。 いやらしいこと に、この時期に、家康が利長に送った書状には、やたらに「まつ殿が、まつ殿 が…」と、人質に取ったまつの近況を伝えて、(忘れるな。いつでもお前の母親 は殺せるぞ)ということを示している。

 この家康のもとめに応じて、利長は二万五千人の軍勢を率いて、南下を始め た。 だが、まじめに南下作戦をやらない。 福井方面に向かって南下するの だが、小さな勝利を得ると、さっさと兵を返して、金沢城に戻って休んだ。 そ して、しばらくすると、また金沢から出てきて、南下を始める。 そういう奇 妙な軍事行動をとった。 「関ヶ原の混乱に乗じて、前田家の領地を拡大する」 ことが、利長の唯一の軍事目的だった。 「まじめに南下すれば、家康を大勝 利させてしまうだけである」という考えだ。 しかし、家康にしてみれば、こ れだけでも有難い。 前田の大軍が相手方に加わらず、実質的中立を保ってく れれば、それでよかった。

 この関ヶ原の戦いのなかで、のちに三代となる前田利常が姿を現し、重要な 役回りを演じる。 前田家の領土の南には小松城主・丹羽長重がいた。 前田 が南下するには、丹羽領を通らなければならない。 丹羽は西軍・石田方に与 (くみ)していたから、その領内を通れば、当然戦(いくさ)になる。 百万 石軍は、丹羽二十万石を、たちまち破った。 しかし、丹羽長重は丹羽長秀の 子であり、もともと信長の家中であったから、前田家とは親しい。 利長は丹 羽に対して、これ以上ないという寛大さを示した。

 関ヶ原での東軍大勝利の報に接し、丹羽があわてて講和に応じてきた。 利 長は、丹羽も軍勢に加え、しかも先に歩かせ、京都の徳川家康の陣に向かう。  ただし、たがいに裏切らぬよう人質が交わされた。 丹羽側は長重の弟長紹(な がつぐ)を人質によこし、そのかわりとして、前田側からは利長の弟、「お猿」 利常が人質に遣わされることになった。 この「お猿」利常の生い立ちなどに ついては、また明日。