徳川幕府の防衛ラインと譜代大名配置2014/10/25 06:36

 磯田道史さんの『殿様の通信簿』「内藤家長」にある話だ。 徳川家康が天下 を取れたのは、ひとつには、三河武士のきまじめさによる、というのだ。 譜 代大名は「鉢植え大名」と言われたように、幕府の命令一つでどこにでも移さ れる。 日向(宮崎県)の延岡に置かれた内藤家も、そういう徳川譜代の大名 だった。 江戸から見れば、はるか地の果てのように遠く、夏目漱石の『坊っ ちゃん』のうらなりを持ち出すまでもなく、左遷先といっていい。 参勤交代 に莫大な費用がかかる。 老中など幕閣の要職には、まずつけない。 延岡は、 九州の外様大名を抑える徳川の南の砦になっていた。

 徳川家康は大名を配置するにあたり、一つの防衛構想を持っていた。 家康 は西国の外様大名を信用しておらず、将来、必ず自分のつくった幕府を攻め滅 ぼしに攻め上ってくることを考え、その戦いを想定して、拠点、拠点に、腹心 の大名を配置した。 どこに防衛ラインを引くか。 西国から江戸を攻めるに あたって、敵が必ず通過する地峡を、まず押さえた。 その代表的なものが、 「彦根・桑名線」。 琵琶湖と伊勢湾に挟まれたここは、幅が2、30キロしか ない。 彦根には「先陣の家」、徳川家の「斬り込み隊」である井伊家の赤備え を置いた。 桑名には、徳川四天王の一人として、その勇猛をうたわれた本多 忠勝の本多家を据えた。 桑名は、のちに松平定信の子、定永が据えられ、久 松松平家に代わる。

 九州で乱が起きた場合、押えなければならない最重要地点は、「小倉・下関線」。 ここさえ取れば、本州と九州の連絡路を抑えることができ、日本海側からの京 大坂への海上物資輸送まで止められる。 薩摩の島津に対しては、小倉、中津、 延岡に譜代大名を置いた。 小倉は小笠原、中津には奥平、そしてその南の延 岡に内藤家を置いた。 大乱が起れば、延岡の内藤家がどういう運命を辿るか。  島津の大軍をひとりで引き受ける、いわば「捨て城」だった。 そこを守らせ るのは、「徳川を絶対に裏切らぬ」大名でなければならなかった。

 話は、初代内藤家長にさかのぼる。 慶長5(1600)年、徳川家康は会津上 杉を討伐するため、預かっていた伏見城から軍を率いて東国へ下ることになっ た。 留守中に、石田三成が兵を挙げるのは確実だった。 伏見城に人数は割 けない、留守番は確実に死ぬ、「捨て城」である。 家康軍四万人が東国から戻 るまでの時間稼ぎが、その任務だ。 家康は、忠義心の強い、年老いた家来、 内藤家長、鳥居元忠、松平家忠、内藤近正を選んだ。 彼らの子の一人は、必 ず自分が連れて行った。 家康が伏見を離れると、案の定、石田三成は挙兵し た。 伏見城に十万人で攻め寄せた。 立て籠もった徳川方は千八百人と言わ れている。 関ヶ原合戦の前哨戦となった「伏見城の戦い」である。 弓の名 人として知られた内藤家長は奮戦したが、もう無理だと悟ると、猛火の中に飛 び込んで焚死した。

 福沢諭吉の殿様である、中津の奥平家。 長篠の合戦のとき、徳川方につき、 わずか五百人で一万五千の武田家を引き受け、籠城戦を戦い抜いた家である。  幕府はその先例に倣(なら)って、中津に奥平を入れたという。 私は、この 歴史を知らなかった。

 「忠義の家」内藤と鳥居の子孫も、「捨て城係」とでもいうべき損な役回りに なり、かわりばんこに、陸奥国の磐城平(いわきたいら)城を預かった。 仙 台六十二万石の伊達への守りである。 会津も、同じだろう。

「明治14年の政変」の共同研究を<等々力短信 第1064号 2014.10.25.>2014/10/25 06:38

「明治14年の政変」が、日本近代のきわめて重要な分岐点になったという思 いが、年々強くなっている。 この政変は、もっと言及され、研究されるべき だと思う。

 国会開設請願運動が高まると政府も立憲政体への移行を決意したが、その時 期をめぐり漸進論の伊藤博文・井上馨と、早期国会開設論の大隈重信が対立し た。 そんな中、開拓使官有物払下げ事件が起こると、大隈に福沢、岩崎(三 菱)と組み民権運動を取り込んだ薩長派打倒の策動があるとして、伊藤らは岩 倉具視らと結び、明治14(1881)年10月、大隈らを罷免するとともに、払下 げを中止し、憲法欽定の方針と、十年後国会開設の勅諭を出して民権派の反撃 の矛先をかわした。 政変の結果、大隈傘下の矢野文雄、中上川彦次郎、尾崎 行雄、犬養毅ら福沢門下の若手官僚もいっせいに追われ、福沢が提唱していた イギリス流の議院内閣制導入の構想は完全に消滅し、日本の進むべき方向はプ ロシャ流欽定憲法採用路線に確定した。 伊藤らの依頼で政府広報新聞の発行 準備をしていた福沢は、翌年3月独立不羈の『時事新報』を創刊することにな る。

 9月20日、福沢諭吉協会の土曜セミナーで、大久保健晴慶應義塾大学法学部 准教授の「近代日本黎明期における蘭学と統計学」を聴いた。 その中で初耳 だったのが、大隈が自分の砦として、明治14年3月会計検査院、5月統計院を 設立していたことだった。 明治16年国会開設の準備に、国会で国務の説明 ができる政府委員として、自らの配下に有能な人材を集め、統計院の調査機能 を利用して情報を収集する狙いがあった。 これより先、明治11~12年に、 大隈から福沢にこれに関して人材の問い合わせがあり、福沢は自身の政治構想 とも一致する動きに、慶應義塾挙げての協力を表明、矢野、中上川、小泉信吉、 尾崎、犬養らが政府に入ることになったのだった。

 わが国の財政が、膨大な借金をかかえて、ほとんど破綻状態にある一つの原 因は、現代日本の公会計が今でも単式簿記を採用し続けていて、つまり金の出 入りの大福帳(損益計算書)だけで、貸借対照表をつくらないことにある。 福 沢が初めて複式簿記を紹介した翻訳書『帳合之法』を出版したのは明治6年だ った。 複式簿記は急速に普及し、明治政府でも一度は積極的に導入、『帳合之 法』から5年後の明治11年、大隈大蔵卿の提案で、各省庁府県が複式簿記を 採用し、複式簿記で帳簿を作り、財務書類を作成していた。 しかし、明治22 年には単式簿記による公会計に戻り、現在に至っている。

 1950年頃から京大の人文科学研究所で、桑原武夫教授を中心にルソーやフラ ンス百科全書の共同研究が成果を挙げた。 先日、早稲田大学で大隈記念室を 見て、早慶両校が協力して「明治14年の政変」の共同研究ができないものか と思った。