大村益次郎の知恵、現場主義と最短距離2016/10/03 06:19

 そこで、大村益次郎である。 先人たちの底力『知恵泉』は、その前週も「戦 の勝ち方教えます~幕末の理系男子 大村益次郎~」だった。 大村益次郎は「数 学や物理がわからなければ、世の中のことはわからない」と言っていたという。  近田雄一アナが居酒屋『知恵泉』店主、いつもの山本博文東京大学史料編纂所 教授と松村邦洋に、ゲストは理系だという西松屋(乳幼児用品、小児用雑貨専 門店)の大村禎(示貞)史社長。

 大村益次郎の村田蔵六は文政7(1824)年に長州、周防国吉敷郡鋳銭司(す ぜんじ)村の医者の長男として生まれた。 弘化3(1846)年大坂へ出て、緒 方洪庵の適塾でオランダ医学、兵学を学び、3年で塾頭になった(福沢諭吉が 適塾に入ったのは安政2(1855)年)。 嘉永6(1853)年27歳で故郷鋳銭司 村へ帰り医者をしていたが、嘉永6(1853)年ペリーの黒船が来航、安政元 (1854)年宇和島藩に仕官する(番組では、藩の要請でなく「押し掛けた」と 言った)。 殿様の伊達宗成は「黒船をつくれ」と命ずる。

 大村益次郎の知恵、その一は「本(ほん)より証拠」。 宇和島藩はオランダ 語の書物や資料を沢山集めていたが、益次郎はそんなものは読まずに、長崎へ 行き、外国船の実物を見る。 蒸気船の構造などの調査を3か月して来て、よ うやく本を読みこみ、具体的なプランをつくる。 現場主義だ。 安政2(1855) 年、蒸気船のひな形が出来て、海で走らせると、殿様は喜んだという。 安政 3(1856)年、藩主の参勤にしたがって江戸へ出て、幕府の洋学研究所、講武 所教授となる。 桂小五郎にひっぱられて長州へ、文久元(1861)年38歳で 藩の洋学所、博習堂教授となる。

 益次郎の知恵、その二は「最短距離を進め」。 博習堂で即戦力となる士官を 要請するため、従来のオランダ語の学習でなく、日本語の兵学教科書を自ら執 筆して使うなど、教育内容を改革する。 それまでの倫理でなく、戦い方に焦 点を当てる。 特に偵察を重視。 40科目を4か月で学べるようにした。 慶 應2(1866)年6月の第二次長州征討では、石見方面の兵力1千を率い、幕府 軍1万に対した。 益田から浜田まで、縦に長く布陣する幕府軍を、先頭から 個別に撃破した。

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