各種歴史事典【徳川家康】「築山殿」と「信康」2017/11/25 07:05

大河ドラマ『おんな城主 直虎』で、直虎(柴咲コウ)の目指していたものは、 芳賀徹さんが『文明としての徳川日本』(筑摩書房)(<等々力短信 第1100 号 2017.10.25.>参照)で描いた「徳川の平和」だったことが、次第に明らか になってきた。

昨日、『日本歴史大事典』などを持ち出したのは、こんな訳があったからだ。  いささか旧聞だが、3月25日の福澤諭吉協会の土曜セミナーで、佐藤能丸早稲 田大学講師の「人と事を編む―日本近代史辞典の編纂を中心に―」を聴いて、 膨大なプリントを頂いた中に、【徳川家康】の項目の比較例があった。 その中 で、「築山殿」と「徳川信康」に関する記述がどうなっているか、見てみたい。

(1)『国史大辞典』(1908(明治41)年・吉川弘文館)

 まったく、記述なし。

(2)『日本歴史事典』(1952(昭和27)年・実業之日本社)

 まったく、記述なし。

(3)『日本歴史大辞典』(1956(昭和31)年-1969(昭和44)年・河出書房)

「1555(弘治元)年元服し、関口義広の女を娶った。」のみ。

(4)『国史大辞典』(1979(昭和54)年-1997(平成9)年・吉川弘文館)

 「19歳まで駿府に住み、弘治元年(1555)には元服して、次郎三郎元信と 称し、同3年には今川氏の一族関口義広の娘(のちの築山殿)と結婚した。」「(永 禄3年(1560)桶狭間の戦で)義元が敗死したのち、岡崎城に入って自立し、 翌年には織田信長と和睦した。これにより今川氏から離反したが、駿府にいた 妻関口氏と子の信康は、永禄5年に鵜殿長照の二子と交換されて無事に岡崎に 移った。」「(永禄)12年5月には今川氏真がいた掛川城が陥落して、遠江はほ ぼ平定された。翌元亀元年(1570)に家康は引馬(ひくま)に築城して、本拠 をここに移し、地名を浜松と改め、また岡崎には信康を置いた。」

(5)『日本大百科全書』(1984(昭和59)年-1994(平成6)年・小学館)

 「14歳のとき元服し今川義元の一字を与えられて元信と名のり、16歳で今 川氏一門の女(むすめ)(築山殿)と婚姻。」「[信長と結び信玄を防ぐ]1563 年(永禄6)、子の信康と信長の女(むすめ)との婚約を成立させた元康は家康 と改名、今川氏との絶縁を天下に宣言した。」「そのころは信長と同盟関係にあ った武田信玄が今川氏の領国駿河に侵入したのを機に、68年家康は遠江を占領、 70年(元亀1)遠江引馬(ひくま・浜松)城に移って本拠とした。同年の近江 (滋賀県)姉川の戦いに信長を助けて出陣したが、このころには信長・家康と もに信玄との同盟を解消し、家康は信長のために身をもって武田の西上を役割 を担い、大きな犠牲を払わされた。71年の三方ヶ原の戦いで信玄に惨敗し、75 年(天正3)の長篠の戦いで信玄の子勝頼と戦って勝利し、さらに79年信長の 命により築山殿との間にもうけた長子信康を自殺させ築山殿を処刑したことな どがその主要なものである。」

(6)『日本歴史大事典』(2000(平成12)年-2001(平成13)年・小学館)

「1555年(弘治元)元服し、今川義元の諱(いみな)を得て元信と名乗り、今 川氏の一族関口義広の女(築山殿)と結婚した。」「79年、武田との内通を理由 に信長に強制され築山殿を殺害し、嫡男信康を自害させた。」

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