明治13(1880)年「最後の仇討ち」 ― 2018/02/20 07:12
大隈重信の面識を得て、同じ九州者だけに懐に飛び込めば大隈は悪くはしな いだろう、出世の道が開ける、と一瀬克久は思った。 この日、いったん上級 裁判所に出た後、黒田屋敷に行き、旧藩主黒田長徳に拝謁して、旧佐賀藩との 縁故を探ろうとした。 そこには臼井六郎が待っていた。 直久は六郎の顔を 見つめ、次の瞬間、顔を恐怖にゆがめた、「―臼井亘理か」うめくように言った。 「父の敵―」六郎は叫びながら短刀を抜いて、突きかかった。 本懐を遂げた 六郎は、京橋警察署に出頭した。 見上げると、青空は見えない。 薄雲にお おわれた曇天だった。 明治13(1880)年12月17日のことだった。
翌日、それを知った山岡鉄舟は、妻英子に言う「政府は仇討ちを禁じておる ゆえ、六郎は罪に問われて罰せられる。そのことに耐えなければならぬだけで はない。おそらく最後となるであろう仇討ちを果たした六郎を、世間は浮薄に 持ち上げるだろう。それに振り回されず、おのれが何を為したかを見つめてい かなければならぬ。それが六郎のこれからの修行だ」
東京上等裁判所は翌年9月22日、終身刑の判決を下した。 死刑にしなか ったのは、「士族タルニ付キ」ということで、世間でも支持する者が多い六郎を 死刑にするのは憚られたのだろう。 六郎は小菅の東京集治監に収監された。 ここにはホフマン式窯三基の煉瓦製造所があり、銀座煉瓦街の煉瓦も製造され、 獄舎も煉瓦造りだった。 終身刑なので、母を惨殺した萩谷伝之助を討てない ことが無念だった。 「最後の仇討ち」をした臼井六郎の名は集治監でも広ま り、何かと話しかけられる。 反政府活動に引きずりこもうとする者もいた。 叔父の上野四郎兵衛からの手紙で、「明治14年の政変」で大隈重信が失脚した ことを知った。 明治16(1883)年から18年にかけて、東京集治監に自由民 権運動の闘士たちが、相次いで投獄された。 河野広中、大井憲太郎も投獄さ れ、大井は六郎に「わたしは代言人ですが、臼井さんの件を扱えばよかった。 あなたはかような牢獄にとじこめられるべきひとではありませんよ」と言い、 六郎は「わたしは、すでに正しきことを為したと思っています」と微笑した。 「わたしは小人です。ひとの命を奪うという大それたことをしたからには、も はや、この世で為すべきことはないと思います」
明治23年8月23日、森鴎外は信州への旅に出、『みちの記』という紀行文 を残した。 上野からの汽車を、途中で鉄道馬車に乗り換えて碓氷峠を越え、 軽井沢に出た。 何泊かを重ね、ある宿で新潟の裁判所で判事を務めている木 村某という男に出会った。 四方山話をするうちに、木村は臼井六郎を知って いるかと聞き、自分は「最後の仇討ち」に詳しいと言った。 筑前秋月の出と 知り、鴎外は木村が暗殺の現場にいたのだろうと、聞く。 答える前に、臼井 六郎をどう思うかと聞かれた鴎外は、「旧弊ですな。明治の御代には合わぬ男で す。時世のほうで勝手に変わったのです。舞台が変わって、いままで孝子であ ったものが、人殺しと呼ばれるようになった。悪いのは時世のほうでしょう」 と言う。 木村は勤王党で、亘理を襲った中にいたけれど、刀を血塗らせるこ とはなかったと明かし、臼井六郎が恐いという。 判事なので、昨年2月に大 日本帝国憲法が発布され、大赦令が出て、終身刑が禁獄十年に減刑され、来年 9月に臼井六郎が釈放される、とわかっていたのだ。
明治24年9月22日、六郎は東京集治監から釈放された。 33歳になって いた。 山岡鉄舟夫人英子の呼びかけで、本郷の料亭神泉亭で慰労会が開かれ た。 大井憲太郎も出獄していて、監獄仲間だったという星亨を紹介した。 星 は陸奥宗光の知遇を得て大蔵省に勤め、イギリスに留学して帰国後、代言人と して成功したが、自由党に入って活動しているのを、政府に目をつけられて投 獄されたのだった。 「臼井さん、これからは皆、生まれや身分にかかわらず、 自由に競い合う時代になります。わたしは次の選挙に出て、代議士になります。 いまのあなたは天下の地名士のひとりだ。最後の仇討ちをやった臼井六郎が国 会に乗り込むとなれば大人気になります。どうです、わたしと一緒にやりませ んか」と言った。 六郎は「わたしはただ、青空が見たいだけです。亡き父か ら蒼天を見よ、と教えられましたから」、「仇討ちをしたときも、青空は見えま せんでした。わたしには一生、見えないのかもしれない」と答えた。
六郎は、その後、東京を転々として裁判所の雇員や代言人など様々な職につ いていたが、日露戦争が始まった明治37年の秋、東京を離れ、九州に戻った。 青空が広がっていた。 そうか、蒼天は故郷の上にあるのだ。 生き方に悩み 苦しんだならば、故郷に戻り、空を見上げればよかったのだ。
翌年、43歳になった六郎は、いゑという妻を迎え、門司駅前で「薄雪饅頭」 を売る饅頭屋を営み繁盛、鉄道の分岐点になると知った佐賀県鳥栖駅前に鉄道 の待合所を開いて移り住む。 商売は繁昌し、平穏な晩年を送り、59歳で亡く なった。 墓は故郷秋月の菩提寺、古心寺で、両親の墓に寄り添うように建っ ている。
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