西郷隆盛、緻密にして大胆な戦略2018/02/24 07:24

 『英雄たちの選択』「これが薩摩の底力!」、西郷隆盛の話になる。 郷中(ご じゅう)教育。 下加治屋町からは、西郷隆盛、大久保利通、大山巌、東郷平 八郎、黒木為楨(ためもと・陸軍大将)が出た。 詮議(ケース・スタディ、 ディスカッション)で、抜群の実践力を育んだ。 もし、○○ならば、どうす るか、反実仮想。 「主君の敵と、親の敵、同時に遭遇したら、どちらを斬る か?」 西郷隆盛は、情に厚い(中野信子さん)。 沈着冷静な戦略、緻密にし て大胆(磯田道史さん)。 元治元(1864)年、禁門の変で幕府方の指揮は西 郷。 第一次長州征討で「長州探索要目箇条書」というのを書いているが、戦 いより外交を重視。 長州では、人の心がまとまっているか、小銃や大砲の数 は、兵士の給料・食事(兵士の士気に関係)、兵糧の数量など兵站、応援の藩や 公家は、京・大坂の密偵の名前、居場所まで、調べるように指示している。 8 月、久光宛黒田清綱建言書。 幕府は薩摩の力を削ぐため、薩長を戦わせよう としている。 探索方から、長州では岩国藩主吉川経幹(つねまさ)が幕府に 恭順すべきと内部分裂している、と報告。 西郷は、命を賭けた直談判、下関 で長州諸隊幹部と交渉をした。 意表を突く、自分の命を投げ出す、生と死の 抱き合わせ。 長州が恭順の意を示し、幕府軍が撤退すると、吉川経幹に薩長 同盟のヒントをもらす。

 「薩摩に抽象なし」具象・具体あるのみ、目標のロマンチスト、行動のリア リスト、武力倒幕は西郷がいたから出来た(磯田道史さん)。  幕末、京都での薩摩藩の活躍。 島津久光は大人数で、琉球使節団を従え、 堂々の上洛。 御所の西北角(現在の同志社大学)に、二本松薩摩藩邸があっ たのは、近衛家との縁で、近衛家に隣接していた。 御所の東には、大久保利 通旧邸。 北1キロには、小松帯刀が近衛家別邸御花屋敷跡にいて、ここで慶 応2(1866)年、薩長同盟が結ばれた。 三傑、西郷は「政治目標の創出」、大 久保は「どのようにやるか」、小松は「保証書、お墨付きを」。

 慶応3(1867)年5月、西郷の久光宛建白書。 2月、幕府は第一次長州征 討に失敗、薩摩は出兵せず、新式銃を長州に流す。 徳川慶喜が将軍になると、 フランス式軍備をし、兵庫開港。 5月、天皇から開港の勅許を得る。 タイ クーンは、巨大な壁だった。 小松帯刀は硬軟の両策を練る。 大政奉還で天 皇中心の新体制にするか、京都・大坂・江戸三都同時挙兵(西郷・大久保)か、 討議。 冷徹なリアリズムで、武力倒幕計画の中止を求める上田藩の赤松小三 郎を暗殺する。 10月14日大政奉還、慶喜はその先も新体制に加わり、手腕 を発揮することを目指す。 西郷らは、徳川排除へ動く。 12月9日、王政復 古のクーデター、御所へ侵入。 前日の岩倉具視宛、岩下佐次右衛門・西郷・ 大久保書簡、「干戈を動かし、天下の耳目を一新、戦いを決し、死中活を得る」。

 西郷たちの「当事者意識」、西郷「偉人たちがやっていることが、自分たちに は出来ないと思うのは、戦場で逃げ出すのと同じだ」、この意識は郷中で育った みんなが共有している、恐ろしい集団(磯田道史さん)。 「ビジョンと教育」 (瀧本哲史さん)。 「順聖院(じゅんしょういん)様の御深慮」、斉彬の遺志 (桐野作人さん)。 

 可哀そうだったのは赤松小三郎、アメリカの大統領制と議会などを勉強して いた。 その赤松を斬ったことを、政治思想史の学者が惜しんでいる。 (平 山洋さんは『「福沢諭吉」とは誰か』(ミネルヴァ書房)で、赤松は薩摩藩の武 力倒幕路線に反対し、西郷・小松と幕府の永井尚志の仲介をしようとしていた が、9月上田藩に呼び戻されることになった。薩摩藩にとっては赤松が指導し た英国式練兵術は絶対の秘密で、それを幕府方に知られるのはまずい。先代上 田藩主は幕府老中で、幕府中央というべき藩だった。薩摩は何としても赤松の 帰藩を阻止しなければならなかった、としている。)