美術に「あんべいい」秋田2018/05/23 06:49

 秋田への第50回福澤史蹟見学会、秋田市・男鹿半島・能代市を巡り、福沢 諭吉門下生や慶應義塾にゆかりのある人々の足跡を訪ねるものだった。 羽田 空港で膨大な資料を渡された。 案内役の畠山茂さんが主に準備され、坂井達 朗先生の「福沢門下生井坂直幹と秋田木材の経営」が加えられていた。 畠山 茂さんは、秋田高校から昭和49年慶應義塾大学法学部卒、秋田市の要職を務 められ、秋田市千秋美術館の館長をなさった。 同じく秋田の協会会員、江畠 治彦さん(昼食をしたホテルの「車屋」から見えた学校法人敬愛学園の専務理 事)が、ご一緒に案内をして下さった。

 周到な下準備だけではない、畠山茂さんのお顔とコネが随所で役立っている のが、実感できる旅となった。 第一は、美学美術史の関係である。 昼食後、 ホテルの前にある県立美術館で常設の藤田嗣治の巨大キャンバス画≪秋田の行 事≫を鑑賞した。 秋田の大地主の長男、平野政吉(まさきち・明治8(1895) 年~平成元(1989)年、93歳)が、昭和4(1929)年の藤田嗣治の帰国展に 注目、藤田作品のコレクションを始める。 財力にあかしたパトロンとなり、 昭和12(1937)年に藤田を秋田の別邸に招き、米蔵を改造したアトリエで、 ≪秋田の行事≫の制作を促した。 明治大正の春夏秋冬、秋田の人々と行事や 風土を描いた、縦3・5m、横20・5mのこの絵を、藤田は14日半で描き上げ たという。 戦前に計画した藤田のための私立美術館を、戦後の昭和42(1967) 年に平野政吉美術館として開設、館長となった。 藤田嗣治(レオナール・フ ジタ)のほか、「秋田蘭画」を中心とした初期洋風画、西洋絵画など幅広く蒐集、 公開した。

 日本絵画史の中で重要な「秋田蘭画」は、江戸中期18世紀に蘭癖大名・佐 竹曙山(しょざん)、藩士小田野直武らが中心となって西洋画法を学び、制作し た洋風学派で、洋画の先駆として司馬江漢らにも影響を与えた。 小田野直武 は、福沢が明治2年に復刻した杉田玄白の『蘭学事始』で知られる『解体新書』 の人体図、骨格図、筋肉図などを『ターヘル・アナトミア』から写し取った。  この書は、小田野直武の解剖図なくしては、成立しなかったと、畠山茂さんは 指摘する。

 国吉康雄のように、ニューヨークで高い評価を受けた洋画家・岡田謙三をご 存知だろうか。 明治30(1902)年に横浜で貿易商の三男に生まれ、森村学 園初等部、明治学院中等部から、大正11(1922)年東京美術学校洋画科に入学 した。 同期に、小磯良平、牛島憲之、猪熊弦一郎がいる。 在学中に渡仏、 帰国後は二科会で活躍する。 戦後、昭和50(1950)年48歳で渡米、ニュー ヨークに住む。 大和絵や料紙装飾の美意識を感じさせる洗練された色調とマ チエール、日本的な装飾性と叙情性を生かした抽象作風で、ユーゲニズム(幽 玄主義)の名でもてはやされ、一躍脚光を浴びる。 昭和57(1982)年、東 京で亡くなった。 平成元(1989)年の秋田市政100周年を記念して、秋田市 は秋田駅近くのアトリオンに秋田市立千秋美術館を開館したが、それを契機に、 きみ夫人から95点の大量寄贈の申し出があり、その後の購入も併せて118点 を収蔵、岡田謙三記念館を併設し、常時20~30点の岡田謙三作品を展示して いる。 岡田謙三作品を「大事に尊重し」、「町の奥ふところで、心ある人々が 芸術と文化を大事にしている秋田」と、おっしゃる畠山茂さんは、この千秋美 術館の館長を務められたわけだ。

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