〔福沢と商売〕2授業料のはじめ〔昔、書いた福沢31〕2019/03/11 07:02

        等々力短信 121 1978(昭和53).8.5.

 『福翁自伝』によれば、生徒から毎月授業料を取ることは、慶應義塾が創め た新案であった。 それまでの日本の私塾では、入学時に束脩を納める他、盆 暮に生徒銘々の分に応じた金子を先生家に進上する習慣だった。 福沢は「と てもこんなことでは活発に働く者はない、教授も矢張り人間の仕事だ、人間が 人間の仕事をして金を取るに何の不都合がある、構ふことはないから公然価を 極めて取るが宣い。」と考えた。(『福翁自伝』「王政維新」授業料の濫觴)

 明治2年8月版「慶應義塾新議」に「一、受教の費は毎月二分づつ払ふべし」 と規定されているのがそれである。 生徒を教える先進生は月に金四両あれば 食える。 一分は四分の一両だから、一人で八人を教えればよい勘定だ。 「但 し金を納るに水引、熨斗(のし)を用ゆべからず」という文句に、福沢の慣習 にとらわれない自由な考え方、ざっくばらんな人柄が出ている。

伊藤正雄さんのこと〔昔、書いた福沢32〕2019/03/12 07:08

         等々力短信 126 1978(昭和53).9.25.

 9月16日に交詢社で行われた福沢諭吉協会の土曜セミナーで、スピーカー の桑原三郎さんから「7月に甲南大学の伊藤正雄教授が亡くなられた」と聞い て、がっかりした。

 慶應義塾の外にあって、国語、国文学という専門から福沢諭吉研究に入られ た伊藤正雄先生は、この分野でも立派な業績を残された。 その一冊、昭和33 (1958)年慶應義塾創立百年の年に毎日新聞社から刊行された『福沢諭吉入門 ―その言葉と解説』によって、私(高校2年生)は福沢諭吉という人物に出会 った。 伊藤先生や小泉信三さんがいなければ、私も多くの塾生と同じように 「何を今さら福沢か」と思いつづけていたかもしれない。

 伊藤先生は福沢という巨人の全貌をなんとか現代人に伝えたいと努力され、 前記の『入門』をはじめ、口語訳の『学問のすすめ』(教養文庫)と『文明論之 概略』(慶應通信刊)を世に問われている。

『がんを生きる新常識』2019/03/13 07:24

 今日は〔昔、書いた福沢〕シリーズを、ちょっとお休みして…。  7時半からのBSプレミアムで見ている朝ドラの『まんぷく』に続く15分番 組、先日は『がんを生きる新常識』のシリーズがあった。 年間百万人が「が ん」にかかるから、お医者さんにも「がん」にかかる人がいて、その時、お医 者さん自身はどう対処するのかを、扱っていた。

実は、子供の頃から駄洒落を言い合って、クッククックと笑い合ってきた、 古希の弟が先日、ごく初期の前立腺がんと診断され、ダ・ビンチによる手術を 受けて、無事成功した。 術後、多少の尿漏れは避け難く、しばらくはアテン トの世話になるというので、退院を祝して一句贈った。 <水温む弟アテント 当てんとす>

 ダ・ビンチという器械と、ダ・ビンチによる手術風景は、2001年、福沢諭吉 没後100年記念の『世紀をつらぬく福沢諭吉』展の、「サイアンスの視点」の コーナーで見て、強く印象に残っていた。 図録の解説に、こうある。  「内視鏡の開発は1806(文化3)年、ボツィーニ(Bozzini)によるロウソ クと反射鏡を用いた膀胱鏡の試みにはじまるとされる。福澤諭吉は「医術の進 歩」の中で内視鏡に興味を示し「視学の器機次第に巧を増すに従て、漸く内部 を窺ふの区域を増し、子宮、直腸、又は膀胱、胃の裏面の如きは、恰も口中を 見ると一般にして」と記している。胃の内視鏡は1868(慶応4)年、鉄砲洲か ら芝新銭座に塾を移して慶應義塾と称した年に、クスマウル(Kussmaul)に よって行われた。その後レンズと光源の改良や、先端が可動する器具の登場を へて、フレキシブルで同時に病変の写真撮影ができる内視鏡が1950年代に日 本で開発されている。当初は写真撮影のみが可能であったが、その後内視鏡に よって手術もふくむ診療までが可能になり、体内のさまざまな領域へ応用が進 められてきた。」  「慶應義塾大学医学部外科学教室では2000(平成12)年に手術支援ロボッ ト「ダ・ビンチ(da Vinci)」の臨床応用も開始した。3次元空間に存在する物 体が動く自由度は、並進3、回転3の合計6自由度がある。通常、鉗子は腹部 に設置した器具を支点に動くため、4自由度に制限されているが「ダ・ビンチ」 は6自由度を有するとともに、3次元のモニター上でよりスムーズに臨場感の ある遠隔操作を可能にした。」

 『がんを生きる新常識』では、ダ・ビンチによる前立腺手術の映像が流れた。  「ダ・ビンチ」の手の数は、2001(平成13)年の図録の写真より多くなって、 タコの足のようになっていた。 さらに前立腺がんの治療では、東海大学八王 子病院の高密度焦点式の超音波で焼き切る方法も紹介していた。 その図で、 前立腺がどこにあるかも、よくわかった。 短期、低侵襲で処置できるが、保 険適用外なので、90万円ほどかかるという。

 がんは、早期発見が何より大切だが、内視鏡や針を使って腫瘍組織を採取す る従来の生検(バイオプシー)に代わって、血液検査で診断や治療予測をする 「リキッド・バイオプシー」の研究も進んでいるそうだ。 「がん」の治療法 も、従来の手術、抗がん剤、放射線のほかに、第四の免疫療法や、第五のウイ ルス療法の研究(東京大学医科学研究所先端医療研究センター、藤堂具紀教授 など)も進んでいるという。

番組では一方、「がん」になったお医者さんが、あれこれ新しい治療法を探し、 右往左往して落ち込み、家族の支えで、復活する姿や、笑って明るく「がんを 生きる」ことに抜群の効果があり、ステージ4からフルマラソン、人工肛門(ス トーマ)でもフルマラソンという歯科医師なども、紹介した。 がんサバイバ ーが、職場や社会に復帰できるよう支援するために、全国行脚の活動をしてい るがんサバイバー・クラブ垣添忠生さんという方もいた。

〔福沢と商売〕5 鄧小平記者会見と福沢『丸屋商社之記』〔昔、書いた福沢33〕2019/03/14 07:03

         等々力短信 130 1978(昭和53).11.5.

 先日の鄧小平副首相の記者会見は大変面白かった。 中国はもっと教条主義 で、画一的な答が出るのかと思ったら、柔軟で率直な発言で感心した。 中国 は現在遅れているが、今世紀末にはその時の先進国の水準に追いつく目標を立 てた。 だから進んだ日本の科学技術を学びたいと、はっきりいう。

 明治2(1869)年、福沢諭吉は丸屋商社(現在の丸善)設立の趣意をのべた 「丸屋商社之記」の中で、日本は鎖国の睡眠中に、西洋の諸国に水をあけられ た。 外国人が日本に来るのは、貿易がしたいからである。 今貿易の権を外 人に握られては国の独立が危い、商売こそ「至重至大の急務」だといった。

 福沢はやがて『文明論之概略』(明治9(1876)年)で、まず文明の精神を取 り入れて人心を改革し、ついには有形の文明に至るべし、とした。 鄧氏が外 形の科学技術に終始したのは、精神に自信があるからなのだろうか。

〔福沢と商売〕7 『丸屋商社之記』商売についての福沢の洞察力〔昔、書いた福沢34〕2019/03/15 07:18

         等々力短信 136 1979(昭和54).2.5.

 明治2(1869)年の「丸屋商社之記」(全集20巻22頁)の中で、福沢諭吉 は商人の目をつけるべき要点を述べている。 「合衆国貨幣の銘に曰く、合す れば即ち立ち散(わかる)れば即ち斃ると。ユーナイテッド、ウヰ・スタンド、 セパレーテッド、ウヰ・フォール。又西洋の古語に曰く、徐々に急ぐ可しと。 メーキ・ハスト・スローリー。」「又或る老人の咄しに、世間の商家一廻の商ひ に万金を得るものは屢々(しばしば)あれども、十年にして数万金を残す人は 稀なりと。」

 この時、福沢は数え年36歳、もちろん商売の経験もない。 なのにこの短 い文章の随所で商売の本質とも思えるものにふれているのを読むと、やはりこ の人の洞察力のすごさを感ぜずにいられない。 藤原銀次郎氏の『福沢先生の 言葉』という本にも引用され、強い影響を与えたことがわかる。

 「凡そ人の生業は世間の不足不自由を達し吾不足不自由を満足せんとするの 外ならず。他の不自由を達するの大なるものは吾幸福を得るも亦従て大なり。」