地球の上をうろうろして掴んだもの2019/04/14 07:36

 3月25日の「等々力短信」第1117号に、ヤマザキマリさんの母(最近『ヴ ィオラ母さん』(文藝春秋)という本が出た)の世界観を、日本に留めない育て 方をした、祖父戸田得志郎の存在に触れた。 その母に育てられたヤマザキマ リさんも、若い時からずっと、世界中を股に掛けて飛び回っている。

 『男子観察録』のいろいろな所に、それが出て来る。 ブラジルのリオ・デ・ ジャネイロに行くと、必ずヴィニシウス・ヂ・モライス(作詞)とアントニオ・ カルロス・ジョビン(作曲)の二人が「イパネマの娘」を生み出したカフェに 立ち寄ることにしている。 世界の諸地域に赴いた時、そこでいち早く仲良く なれるのは、現地の子供達だったりするそうで、テレビの仕事(レポーターか) で訪れたフィリピンの首都マニラのスラム街で、そこに暮らす沢山の子供達に あった。 チェ・ゲバラを取り上げたところでは、キューバにボランティアに 行ったことが書かれている。 若い頃に熱心に読んだレヴィ=ストロースの『悲 しき熱帯』に感化されて、自らアマゾンに赴いたことがある。 数年前、アジ ア各国の諸地域で様々な目的のために働いたり活動したりする日本人女性を取 材し、その様子をテレビで紹介しながら同時にルポ漫画として記録する仕事を 請け負った。 フィリピン北部のカリンガ族という山村民族の暮らす村へは、 マニラから飛行機で1時間、そこから宿のある場所まで2時間、目的地は更に 宿から5時間も車に乗って、砂利と泥で捏ね上げられた道なき道を進んだ先に あった。

 2002(平成14)年に14歳年下のマルコ老人の孫と結婚したのは、彼の留学 先のエジプトのイタリア大使館だった。 夫は比較文学研究者で、シリアのダ マスカスや北イタリアでの暮らしを経て、ポルトガルのリスボンでも暮した(そ こで十八代目中村勘三郎と会ったのだろう)。 その後、夫がアメリカのシカゴ 大学で研究することになり、シカゴに転居している。

 『男子観察録』の「空海」にこうある。 「仏教の新しい理念というハード ルの高いものを日本に齎し、広く浸透させることができた空海という僧は、嗅 覚も鋭ければ審美眼も併せ持ち、しかも日本を離れていた自分と日本をバラン ス良く馴染ませる事のできた、想像以上に頭も要領も良い人であったにちがい ない。」 「私が自分の中にある空海像を説明しようとすると、面白い事にそれ は古代ローマ帝国の魅力を語るのとほぼシンクロする。地球上で発生した多様 性や、様々な地域の一律性のない考え方や習慣を、拒んだり選んだりする以前 に、とにかく寛容な姿勢で全てを受け入れる。」 ともに、人間という果てしな い小宇宙である。 空海への思いに取り憑かれていた頃、ヤマザキマリさんは ふと衝動的にチベットまで赴いた。 しかし拉薩(ラサ)に到着するなり重度 の高山病で倒れて病院に送られ、死にそうになった。 かつては人々が、苦労 して何カ月も何年もかけて命がけで到達していた場所に、安直に飛行機や列車 で辿り着き、何かを知ったつもりになって帰ろうとだけ思っていた、自分の判 断への底なしの反省だけが、自分への戒めとして残った。 「旅はもとより、 留学は一切自分への甘やかしが許されない。様々な屈辱や、挫折への誘惑との 葛藤なども漏れなくセットで付いてくるが、そういったものを最終的にどう自 分自身を司る血や肉に変えていくことができるのか。そしてそれを、日本へ戻 ってきたときにどう生かすことができるのか。散々な思いをしてでも海外で得 た知識や情報を、日本の人にどう嫌味なく、不純物を加えず、魅力的で素晴ら しいものとして伝えることができるのか。日本の外側というものが、特別であ ると同時に突出して特別でもない、我々人間の暮らす空間の一部分であるとい うことをどうしたらわかってもらえるのか。/“留学”という理念の真髄が、 空海という人物の中にはっきりと見えてくる。」