「お札と切手の博物館」「渋沢史料館」2019/05/07 07:14

 10連休初日の4月27日の土曜日は、福澤諭吉協会の第27回の一日史蹟見 学会「北区・飛鳥山を訪ねて」があった。 4月27日、実は私の誕生日で、78 歳になった。 一行の中には90歳という方もおられるから、まだまだという 齢だけれど、福沢先生が66歳で亡くなったことを考えると、一回りも長く生 きているのにと忸怩たる思いしかない。

 池袋の東京芸術劇場前で集合、バスでまず王子駅近くの「お札と切手の博物 館」へ。 一億円10キログラムの束は持ち上げなかったが、松本清張の処女 作『西郷札』で、その名を知っていた「西郷札」を、初めて見ることができた。  西南戦争の際、西郷隆盛軍が軍費調達のため発行した軍票だ。 結構ちゃんと 印刷しているのであった。  記念スタンプを押すところに、切手の回りのミシン目=目打の器械があって、 ハンドルを下げると「印刷局」の字が目打ち出来る。 係の人に、最近は面白 い目打がありますね、と話したら、切手は競争入札なので、ここ「独立行政法 人 国立印刷局」ばかりではないと残念そうに言う。 念のため、目打の右下に ハートのマーク、LUCKYとHAPPYの文字が抜かれた今年の平成31年お年玉 切手シートを見てみたら、JOH. ENSCHEDE STAMPS(DEのEの上にチョ ン)とあった。 オランダのジョン・エンスケデという会社の製品らしい。

 つづいて、飛鳥山公園に移動して、「渋沢史料館」へ行く。 五年後に、福沢 に代わって一万円札になる渋沢栄一の活動を広く紹介する博物館である。 実 は私、学校を出たのち数年、渋沢栄一の創った第一銀行本店に勤めていたこと があり、渋沢の丁稚のようなことをしていたので、渋沢栄一のことはかなり知 っていた。 深谷血洗島村の藍などを扱う豪農に生れ、攘夷倒幕の過激派とな って高崎城や横浜居留地襲撃を計画したが破綻、追われて一橋家に逃げ込み、 一転幕臣となって、徳川慶喜の弟昭武に随行して欧州に行き、株式会社など資 本主義の制度を学んで帰国、維新政府の大蔵省に出仕、近代的財政、金融、貨 幣制度の導入に尽力、退官して第一国立銀行の頭取となり、以後明治期を通じ て民間の銀行、産業、実業家団体の育成と指導に大きな役割を演じ、関係会社 は500社にのぼり、民間経済外交、社会公共事業にも取り組み、近代日本の経 済社会の基礎を作った。 生れたのは福沢の5年後の天保11(1840)年、昭 和6(1931)年に、福沢より25年間も長く生きて、91歳で亡くなった。 解 説してくれた係の方の説明が見事で、あらためて一万円札にふさわしい渋沢栄 一の全体像をつかむことができた。 入口にあった看板の写真は等身大と思わ れ、それと並んだ写真を金沢の大窪孝司さんが撮ってくれたが、小さい人が大 きな仕事をしたことを実感できた。

 福沢と渋沢栄一の関係は必ずしも密接とは言いがたいとされているが、明治 26(1893)年6月11日の『時事新報』社説「一覚宿昔青雲夢」(『全集』収録) に渋沢についての言及があるのを、小室正紀さんが見つけたと教えて頂いたの で、いずれ読んでみたい。

コメント

_ 轟亭 ― 2019/10/25 13:48

渋沢史料館・渋沢栄一と福沢諭吉〔昔、書いた福沢137〕<小人閑居日記 2019.10.24.>を、ご覧下さい。

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