スコットランドにW・K・バルトンの記念碑建つ―百七年目の帰郷―〔昔、書いた福沢118〕2019/09/29 08:18

『福澤手帖』第132号(2007(平成19)年3月)の「スコットランドにW・ K・バルトンの記念碑建つ―百七年目の帰郷―」。

 水道が断水した時の不便を思い出しただけで、その人の有難さが身に沁みる。 2006年は、明治日本の上下水道の先生ウィリアム・キニンモンド・バルトンの 生誕百五十年の記念の年であった。 彼がスコットランドのエディンバラで生 まれたのは1856(安政3)年で、2008年に創立百五十年を迎える慶應義塾開 塾の二年前になる。 W・K・バルトンは明治政府が上下水道事業を始めるに あたって招いた「お雇い外国人」の衛生工学技術者で明治20(1887)年に来 日した。 帝国大学で衛生工学を教えて多くの日本人後継技術者を育てる一方、 国内二十四都市で水道、下水道の調査、計画、助言などの活動をした「日本の 公衆衛生の父」と呼ばれる人物で、さらに台湾でも同様の業績を残している。  そうした専門分野だけでなく、写真の大家として日本の写真史にも重要な足跡 を残し、浅草に建てられた日本最初の高層建築「凌雲閣」(浅草十二階)の設計 者でもある。 しかし明治32(1899)年、日本と台湾12年間の滞在からの帰 国寸前、東京で病没したために、日本において残した優れた業績が、本国では ほとんど知られていなかった。 その生誕百五十年にあたり、日本から感謝の 意を伝え、今後の友好親善をさらに発展させたいという願いから、W・K・バ ルトン生誕百五十年記念事業実行委員会が組織され、記念事業が挙行された。  5月には目黒の東京都庭園美術館で記念講演会が、9月にはスコットランドで 一連の記念事業が行われた。 そのクライマックスが、エディンバラでの記念 碑の除幕式だった。 12月『W・K・バルトン生誕150年記念誌』が刊行され た。

 以前『福澤手帖』102号の「バルトンとバートン」に書かせてもらったが、 バルトンと、福沢を通じてその父親が、親子で日本の近代化に貢献していたこ とが判明した。 1983年ハーバード大学のクレイグ教授の研究で、福沢の『西 洋事情』外編の主体になったチェンバーズの『政治経済学』のチェンバーズと いうのは出版社であって、著者はジョン・ヒル・バートンというスコットラン ド人であることが明らかになった。 そのことにふれた私の『五の日の手紙3』 (1994年)「『西洋事情』を読む」を、W・K・バルトン研究家の稲場紀久雄大 阪経済大学教授の夫人日出子さんがお読みになったことから、W・K・バルト ンの父親ジョン・ヒル・バートンと、福沢に影響を与えたジョン・ヒル・バー トンが同一人物だということが判明したのだった。

父ジョン・ヒル・バートンは、スコットランド国立ポートレート・ギャラリ ーの栄光の間に胸像が置かれている十数名の著名人の一人、スコットランド王 室の歴史編纂官に任ぜられた歴史家で、エディンバラの監獄所長などを務めた。  温かい人柄と論壇での幅広い人脈から、その家には若い作家や編集者が出入り し、その中にシャーロック・ホームズのアーサー・コナン・ドイルや『宝島』 のロバート・ルイス・スティーブンソンもいて、バルトンと強い友情で結ばれ ていた。 母キャサリーン・イネスは、十二世紀に遡る名門一族の出で、スコ ットランドの女子教育と女性の地位向上につくした人であった。 バルトンが 幼・少年時代を過ごしたクレイグ・ハウスは今、ネーピア大学(対数の概念を 考案したジョン・ネーピアを記念する)のキャンパスに保存されていて、その 小高い丘から見渡した、町並の彼方に海の見えるエディンバラの景色は、時間 を忘れるほど美しいという。 そのオールド・クレイグ・ハウスの前にW・K・ バルトンの記念碑(碑文は下記)が建ち、バルトンは歿後百七年にして帰還す るにふさわしい場所に帰ることが出来たのだった。 アバディーンでの稲場教 授の「W・K・バルトン教授の生涯と思想―日本の衛生工学と近代化への貢献」 と題する記念講演では、父ジョン・ヒルの母校アバディーン大学の関係者など が、ジョン・ヒルと福沢の関係に強い興味を示し、質問も出たと聞いている。

 日本ではイングランドとスコットランドを一緒に考えるけれど、まったく 別々なのだ。 幕末明治のスコットランドと日本の関係は深い。 実学精神に あふれたスコットランドは大英帝国の「工場」として鉄道・機械・造船業の繁 栄を導き、当時の世界の技術発展の中枢となり、海外へ雄飛していた。 日本 の文明開化に最も貢献したのはスコットランドだと言っても過言ではない。  薩長に武器類や艦船をもたらしたグラバー商会のトマス・グラバー、工部大学 校のすべての機構を作り上げたヘンリー・ダイヤー、灯台や横浜の鉄橋(吉田 橋)と電信工事(共に日本初)のリチャード・H・ブラントンもスコットラン ド人である。 日本人留学生が最も多かったのもスコットランドかもしれない。  グラスゴー大学に留学した福沢の三男、三八もその一人で、入学試験の第二外 国語に日本語を希望し、大学の依頼でロンドン留学中の夏目漱石が試験を担当 している(このことについては「福澤手帖」28号、北政巳さんの「グラスゴウ 大学と福沢三八―日蘇交流の一視点―」に詳しい)。

[エディンバラのW・K・バルトンの記念碑の碑文(訳文は馬場試訳)]

Dedicated with Deep Gratitude To WILLIAM KINNINMOND BURTON 1856-1899/Elder Son of JOHN HILL BURTON, Historiographer Royal, and KATHERINE INNES/First Professor of Sanitary Engineering at the Imperial University, Tokyo/Sole Consultant Engineer for Home Ministry, Designing Water Systems for Major Cities including Tokyo/Designed Japan’s First Skyscraper RYOUNKAKU in Tokyo/introduced Modern Photography to Japan/A Most Prominent Scottish Contributor to Japan’s Modernization/September,2006/The 150th Anniversary of W. K. Burton ’s Birth Planning and Executive Committee, Japan and Scotland

ウィリアム・キニンモンド・バートン(1856-1899)に深い感謝の気持を捧 ぐ/(スコットランド)王立歴史編纂官ジョン・ヒル・バートンとキャサリー ン・イネスの長男/東京帝国大学の最初の衛生工学教授/東京を含む主要都市 の上下水道を設計した内務省の衛生工学専門顧問技師/日本最初の高層建築・ 東京の「凌雲閣」を設計し/近代的写真術を日本に紹介した/日本近代化への 最も卓越したスコットランド人の貢献者/2006年9月/日本・スコットランド W・K・バルトン生誕150年記念事業実行委員会

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