秀吉、山城(京都)を得て、信長の葬儀を執行 ― 2020/09/01 07:09
『多聞院日記』の天正10年7月7日条には、『清須会議』についての記述があり、信雄と信孝が争っているので、二人が三法師の名代を務めるのは取りやめになり、信雄は伊勢と尾張、信孝は美濃を拝領、柴田勝家は近江長浜に二十万石、(先にみた四人の宿老以外に)堀秀政は三法師のお守の経費を賄うため近江中郡に二十万石、丹羽長秀は近江高島郡、志賀郡、池田恒興は摂津大坂を与えられ、秀吉は山城・丹波(丹波は弟の秀長が支配)の両国と河内東部を獲得し、「ハシハカマヽノ(羽柴がままの)様也」つまり「秀吉の思うようになった」と書かれている。 秀吉が天下人(「天下」の概念については、後でくわしくみるが)の差配する山城を獲得したことは、非常に重みがあった。
秀吉は、京都の治安維持、知行の実態調査、預物(あずけもの。明智氏やその一党が預けた金品、武器)などの探索を通して、混乱を鎮めようとして、それは本来織田家(=天下人)の役割だったけれど、意欲的に取り組んだ。 それは秀吉が山城を支配することになったという理由だけでなく、京都の治安維持には朝廷の意向もあったのだろう。 信長の亡き後、秀吉は三法師、信雄、信孝に代わり、さまざまな問題の解決に奔走した。 多くの問題が秀吉のもとに持ち込まれ、解決が委ねられたのだが、それは秀吉に対する信頼の証でもあった。
天正10年9月11日には、柴田勝家の妻となっていた妹のお市と信長の乳母が、信長の百回忌を行っている(『月航和尚語録』)。 翌9月12日には、信長の四男で秀吉の養子次(秀勝)が百日忌を催した(『法用文集』)。 だが、肝心の信雄と信孝が行った記録はない。 遅れていた信長の葬儀が行われたのは、天正10年10月15日のことであった。 一次史料によると、秀吉は信長の葬儀について、信雄と信孝の両人に次(秀勝)を通じて相談したが、返事がなかったという。 宿老衆からも動きがなかったので、「天下の外聞」がいかがかと思い、秀吉は小身でありながら葬儀を主催したと、天正10年に比定される10月18日付の信孝の家臣の斎藤玄蕃允・岡本良勝の二人宛秀吉書状写(「金井文書」)にある。 実際には、すでに9月13日、秀吉は大徳寺に銭一万貫(現在の約十億円)を送って、準備を進めていた。 信雄と信孝は葬儀に出なかった、二人は尾張・美濃の国境をめぐって揉めていた。 『蓮成院記録』によると、滝川一益、丹羽長秀、柴田勝家、信孝の名代・池田恒興は上洛したが、抑留されて、葬儀に参加できなかった。 実質的な喪主を次(秀勝)がつとめ、主だった参列者は池田恒興の名代で次男・輝政(恒興の母が信長の乳母だったからと『晴豊公記』に)、丹羽長秀の名代が三人、細川藤孝くらいだった(『兼見卿記』)。
秀吉、信雄を擁立して、信孝・勝家を死に追いやる ― 2020/09/02 08:32
秀吉は、信長の葬儀を挙行することで、諸大名に存在感を示した。 そんな秀吉に脅威を感じたのは信孝であり、危機感を共有したのが勝家で、やがて二人は手を結ぶ。 天正10年に比定される11月1日付の秀吉書状、家康配下の石川数正宛に、(清須会議の)誓紙に相違し、勝家の所業で信孝が謀叛に及んだとある。 信孝は毛利方と通じていた。 秀吉は、宿老の長秀、恒興と相談し、清須会議の決定を覆し、信雄を三法師の名代に立てる。 勝家との私戦を避け、互いに織田家の血筋の者を擁立したうえで、どちらが天下を差配するのかを焦点にした。 これで当時まだ秀吉は絶対的な権力を掌握しておらず、織田家や諸将の助力なくしては、単独で勝家・信孝に対抗し得なかったことがわかり、家康にも連絡している。 12月、秀吉は信雄を近江で迎え入れ、信孝討伐のため美濃へ出陣する。 美濃の国衆も味方にして、信孝包囲網が形成され、信孝は秀吉に和睦を申し出た。 信孝は命こそ取られなかったものの、秀吉に屈服させられたのだ。
天正11年4月21日、秀吉軍は賤ケ岳で柴田軍に勝利し、敗北した勝家は居城北庄に逃亡したが、24日勝家と妻のお市は自害し、浅井三姉妹(茶々、初、江)は焼け落ちる北庄城から脱出し、秀吉に保護された。 信雄は、この頃、美濃に攻め入り、信孝は死んだが、詳しい経緯はわかっていない、『多聞院日記』には信雄が命じて切腹したとある。
百姓の子が、どうやって関白に就任したか ― 2020/09/03 06:57
秀吉は、京都市中や畿内を掌握するなど、一宿老の枠に収まらない存在となっていた。 天正11年9月、秀吉は大坂本願寺の跡地に大坂城の築城を開始し、翌天正12年8月に入城した。 天正11年冬以降、秀吉は信雄に対して臣下の礼を取らなくなり、危機感を抱いた信雄は、家康と協力して秀吉に対抗する。 信雄・家康との小牧・長久手の戦いで苦戦を強いられたものの、信雄・家康と和睦を結んだ天正12年11月頃から、秀吉は官位を強く意識し出した。 それは本格的に天下人を意識した証左にならないだろうか、と渡邊大門さんは言いつつ、まだ天下は、京都および畿内を意味するものだった、とする。
秀吉は天正12年11月従三位・権大納言に叙せられ、天正13年3月正二位・内大臣へと昇進した。 その天正13年5月時点で、関白以下の任官状況と以降の就任予定(=()内)は、次のようになっていた。 関白職は五摂家の持ち回りで、関白・二条昭実(一年程度の在職ののちに辞任)、左大臣・近衛信輔(関白(左大臣兼務))、右大臣・菊亭晴季(辞任)、内大臣・羽柴秀吉(右大臣)。 秀吉は、右大臣を極官(最高の位)とした信長が本能寺の変で横死しているので、内大臣から右大臣に転任するのは縁起が悪いと言い出す。 信長の「凶例」を避けるため、右大臣ではなく左大臣への就任を要望した。 この申し出に、朝廷は困惑した。 秀吉の要望を受け入れると、近衛信輔はいったん任官のない状態を経て、二条昭実の辞任後に関白職に就くことになる。 しかし、朝廷は秀吉の要望を受け入れざるを得なかった。 信輔は、「近衛家では元大臣(無官)から関白になったことは今までなかった」と主張し、すぐに昭実に関白職を譲るよう辞任を迫った。 関白就任一年足らずの昭実は、「二条家では関白に就任して、一年以内に辞任した者はいない」と反論、関白辞任を拒否した。 両者の間には険悪なムードが漂い、朝廷での訴訟となり泥沼化、解決困難となった。 「関白相論」と称される訴訟は秀吉のもとに持ち込まれ、配下の前田玄以と右大臣の菊亭晴季に相談したところ、晴季から秀吉を関白職に就けるという奇想天外な提案があった。 秀吉は「いずれを非と決しても一家の破滅となるので、朝家(朝廷)のためにならない」ともっともらしい理由付けをして、自身の関白就任の意向を示した。 晴季の提案とはいえ、あらかじめ秀吉に申し含められた可能性がある。
しかし、秀吉の関白就任には大きなハードルがあった。 秀吉の出自は、武家どころか、ただの百姓の子だった。 関白は、五摂家のなかでも最高の家柄出身者に限られている。 すでに引退していた信輔の父・前久(さきひさ)は、秀吉を猶子として迎えることと引き換えにして、将来、子の信輔を関白に就けることを約束させる、家名を守るための苦渋の決断をする(8月30日に再開された『麒麟がくる』に、関白近衛前久が登場していた)。 このようなプロセスを踏まえ、秀吉は、天正13年7月、晴れて関白に就任した。 一連のプロセスを秀吉が計画的に仕組んで、関白に就任したという疑惑を拭い去ることはできない。 近衛家との約束は、結局守られなかったからである。 天正19年12月に秀次が関白職を継承し、五摂家に戻さず、世襲化したのだ。
「天下」の意味、「五畿内」から「日本全国」へ ― 2020/09/04 07:10
近年の研究による織田信長のイメージ<小人閑居日記 2020.6.28.>で、金子拓(ひらく)東大史料編纂所准教授の、信長の「天下布武」についての論を紹介した。 「天下」は「五畿内」を意味し(「五畿内の領主が天下」と呼ばれる(フロイス))、「天下布武」は「天下静謐」将軍義昭が五畿内を穏やかに治めていることを意味する。 京都を中核とする空間が「天下」、「天下布武」は将軍が安んじて京都にいる状態を実現しようとするスローガン。 「天下」が将軍によって治まっている状態を目指したが、諸大名は争っていて、そうではないので、武力によって実現しようとした。 信長は、将軍のサポート役、真面目なものだ、と。
この「天下」が初め「五畿内」を意味したというのは、近年の通説になっているようで、渡邊大門さんの『清須会議』でも、そう言及され、日本全国を意味する「天下」に変わるポイントが考察されている。
天正14年9月、秀吉は京都の大内裏跡に聚楽第を築いて、大坂城から移り、後陽成天皇に譲位した正親町天皇が秀吉の造営した新御所に入った。 同時に、秀吉は太政大臣に就任し、「豊臣」姓を下賜された。 関白は令外官(律令の令に規定されていない官)だったので、秀吉は太政大臣に就任することにより、公家の頂点に立った。 さらに、秀吉は近衛前久の娘・前子(さきこ)を猶子とし、後陽成天皇に入内させた。 秀吉は天皇の外戚になったが、そこには周到な準備があった。 天正16年、後陽成天皇が聚楽第に行幸した際、秀吉は諸大名に対して、天皇と自身に忠誠を尽くし、臣従することを誓約させたのだ。 秀吉は、一気呵成に朝廷を取り込むことに成功し、朝廷を利用することにより、自身の権力を強化したのだ。
天正15年5月、九州の島津氏を屈服させた秀吉は、全国支配に意欲を見せる。 それ以前から太閤検地、刀狩などの諸政策を実行していたが、重要なのは大名統制の方法だった。 関白、太政大臣、豊臣姓を得ると、公家や配下の武家を統制するため、官位を用いて序列化などを試みた。 目に見える形での統制を目論み、天下人としての威勢を知らしめようとしたのだ。
天正16年8月に発給された島津義久の書状(琉球・中山王宛)には、「天下」の語が用いられている(「島津家文書」)。 この場合の「天下」は、文脈から日本全国を指すことが指摘されていて、これを嚆矢として、大名層のなかでは、この頃から用いる例があり、徐々に「天下」が日本全国を意味するものとして使われるようになった。 江戸時代初期になると、「天下」は京都や畿内を意味しなくなる。 秀吉の時代において、「天下」の語義を確定することは困難だが、おおむね天正18年の小田原征伐後を機にして、秀吉の意識のなかでは、「天下」=「日本全国」という意識があったのではないかと、渡邊大門さんは考えている。
立花京子さんの『信長と十字架』 ― 2020/09/05 07:05
6、7月放送のNHKスペシャル「戦国~激動の世界と日本」「(第1集)秘められた征服計画 織田信長×宣教師」「(第2集)ジャパン・シルバーを獲得せよ 徳川家康×オランダ」をきっかけにして、浅見雅一著『キリシタン教会と本能寺の変』(角川新書)を読んだりしたのだが、書棚に立花京子さんの『信長と十字架』(集英社新書)があった。 16年前に、「信長の全国制覇(天下布武)は、ポルトガル商人やイエズス会をはじめとする南欧勢力と密接に関連し、その南欧グローバリゼーションの一端を担うものだった」と、説いていたのだった。 『信長と十字架』を読んで、「等々力短信」に、こんなことを書いていた。 そして、NHKは3か月後の番組で、立花京子さんの「信長暗殺イエズス会黒幕説」を、まったく、無視していた。 その両方を紹介する。
なお、残念ながら、『クアトロ・ラガッツィ』の若桑みどりさんは、2007年10月3日に、立花京子さんは2011年に、亡くなった。
等々力短信 第936号 2004(平成16)年2月25日 女性歴史家の元気
昨年夏、井上ひさしさんの『わが友フロイス』を読んで、天正遣欧少年使節に興味を持った。 巡察師ヴァリニャーノは、好奇心にあふれた日本人にヨーロッパの建造物や都市を見せ、その精神文明の中心にキリスト教があることを、しっかり見届けさせようとした。 1582(天正10)年2月に長崎を出発した伊東マンショ、千々石(ちぢわ)ミゲル、原マルティーノ、中浦ジュリアンの4使節は、目的を達し1590年7月に帰着した。 だが彼らが出発した数か月後、織田信長は本能寺で明智光秀に暗殺されてしまった。 私は、もし信長が殺されず、「天下人」になっているところに、少年使節が帰国したら、そして伊東マンショや千々石ミゲルが、福沢諭吉や渋沢栄一のような人物だったとしたら、日本の文明開化は、江戸時代をすっとばして、278年も早まっていたかもしれない、と考えた。 それで若桑みどりさんの『クアトロ・ラガッツィ』(集英社)が出た時、すぐ手に入れた。 「クアトロ・ラガッツィ」とは、4人の少年、天正少年使節を指す。 西欧側の記録を博覧した大冊で、なかなか読破できない。
若桑さんの本に、立花京子さんという学者の所論がたくさん引用されている。 その立花さんが先月『信長と十字架』(集英社新書)という、ものすごい本を出した。 信長の全国制覇(天下布武)は、ポルトガル商人やイエズス会をはじめとする南欧勢力と密接に関連し、その南欧グローバリゼーションの一端を担うものだった、というのだ。 立花さんは、東京教育大では数学を学び、朝日カルチャーセンターで古文書講座を9年間受講、一橋大や神奈川大のゼミに参加しながら独学で戦国史を研究し、一昨年お茶の水女子大で博士号を取得した人だそうだ。 立花さんは、信長がイエズス会の援助を受けて全国制覇にここまで成功したのに、独力で達成したかのように傲慢になったので、「イエズス会を中心とした南欧勢力」は光秀を利用して信長を抹殺し、「イエズス会のために全国制覇に立ち上がる武将」の首を秀吉にすげかえたのだ、という結論に達する。中世日本も、外圧によって近世的社会への変貌を遂げたと指摘するのだ。
若桑さんは『クアトロ』の173頁に、脇田晴子さんの説を引き「総じて女性歴史家の見る歴史はおもしろい。既成概念やえらい男性の積み上げてきた既成の枠組みにとらわれないからだろう」と書いている。 信長や秀吉でさえもそうだったのか、日本の男達は今、グローバリゼーションに加え、女性の元気にも脅かされている。
NHK、立花京子説を抹殺<小人閑居日記 2004.4.22.>
NHKは、立花京子さんの「信長暗殺イエズス会黒幕説」を、抹殺した。 まったく、無視した。 昨夜放送の「その時、歴史が動いた」、「信長暗殺を命じた男~新説・本能寺の変 浮上した黒幕~」でのことだ。
結論をいえば、三重大学の藤田達生教授の最近の研究で、従来5年前のものとされていた明智光秀の書状が、本能寺の変の直後のものと、断定できるというのだ。 その紀州雑賀(さいが)衆、土橋(つちはし)重治宛の書状には、変が身分の高い人の命令によるものを示す「上意」という文字と、変後「御入洛」の文字がある。 そこから、黒幕は朝廷ではなく、将軍足利義昭だというのだった。
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