麒麟はくるのか? ― 2021/02/01 06:54
大河ドラマ『麒麟がくる』が、7日で最終回だそうだ。 はたして、麒麟はくるのか? 明智光秀はなぜ主君・織田信長に謀反したのか、本能寺の変の原因については、諸説がある。 近年新たな史料の発見により従来の織田信長や明智光秀のイメージが大きく変わりつつある。 NHKは正月にBSプレミアムで、「本能寺の変サミット」を放送、気鋭の研究者を一堂に集めて、諸説を検討した。 従来から言われる「怨恨説」のほか、「野望説」、「共謀説」(「朝廷共謀説」、「イエズス会共謀説」)、「鞆幕府推戴説」、「構造改革反発説」、「暴走阻止説」、「突発的犯行説」、「四国説」、「秀吉陰謀説」、などが検討されていた。
大河ドラマ『麒麟がくる』はどうか。 1月17日の第41回「月にのぼる者」。 光秀は、三条西実澄の手引きで正親町天皇と月見をして、「信長が道を間違えぬよう、しかと見届けよ」と言われた。(「朝廷共謀説」) 松永久秀の平蜘蛛の釜の件を信長に密告されて以来、秀吉とは何かとぶつかっている。(「秀吉陰謀説」) 光秀は、丹波の平定に手を焼き、国衆が将軍足利義昭を奉じ、信長の預治思想(土地は天のもの(天下人=信長)、大名・国衆は預かっているだけ)に反対している。(「構造改革反発説」)
1月24日の第42回「離れゆく心」。 信長は「正親町天皇は自分のことをどう言っていたか?」と光秀に訊くが、光秀は答えず、打擲されて、駒に傷の手当をしてもらう。(「怨恨説」) 信長は、正親町天皇に譲位を迫っている。(「朝廷共謀説」「暴走阻止説」) 光秀は鞆の浦に行って、将軍足利義昭に会って鯛を釣り、光秀一人の京都ならば上洛すると言われる。(「鞆幕府推戴説」)
大河ドラマ『麒麟がくる』では、どうも諸説がごっちゃに重なって、明智光秀を突き動かすようだ。(「突発的犯行説」) 描かれた光秀の人物像から「野望説」は考えられないし、「イエズス会共謀説」や「四国説」には、尺が足りなかった。 以上、1月31日の第43回「闇に光る樹」を見るまでの所見である。 果たしてどうなるのか、楽しみに見ることにしよう。
「真相!本能寺の変 細川藤孝 戦国生き残り戦略」 ― 2021/02/02 07:06
NHKBSプレミアム『英雄たちの選択』「真相!本能寺の変 細川藤孝 戦国生き残り戦略」(1月20日放送)が面白かった。 細川家は記録を大切にした家で、永青文庫には6万点の文書が残されている。 稲葉継陽(つぐはる)熊本大学教授・永青文庫研究センター長は、細川藤孝(幽斎)は文武両道の人だった、と。(大河ドラマ『麒麟がくる』では眞島秀和が演じた。) 母方の清原家は天皇の教育係。 藤孝は連歌をよくし、情報収集力に長け、将軍家の交渉人だった。
永禄8(1565)年足利義輝が殺された時、足利義昭を一乗院から救出した藤孝は、信長の信頼を得た。 藤孝は、光秀とも親交があった。 永禄11(1568)年足利義昭が朝倉義景のもとを去って織田信長を頼った際に、藤孝は光秀とともに、その仲介工作をし、信長は義昭を擁して上洛、義昭は将軍となる。 しかし義昭は次第に信長と不和になり、天正元(1573)年信長に対して挙兵する。 藤孝は義昭に従わず、信長に京都の情報を流していた。 義昭は追放され、室町幕府は瓦解、藤孝は、既に信長の配下になっていた光秀と共に、信長に仕える。 こうした細川藤孝を、作家の桐野作人は「不倒翁」、井上章一国際日本文化研究センター教授は「家を潰さない、よくできた養子、細川家中興の祖」、磯田道史国際日本文化研究センター准教授は「目利き力、外交の嗅覚、早耳。都の武士で、義昭の地方には付いて行かなかった」という。
そこで、本能寺の変である。 天正3(1575)年から4年間、光秀と藤孝は、丹波・丹後攻略にかかる。 その間、信長の勧めで、光秀の娘たま(後のガラシャ)が、藤孝の嫡男忠興と結婚する。 なぜ、光秀は本能寺の変を起こしたか。 2014年、石谷家文書に光秀の長宗我部元親への手紙が発見された。 光秀はずっと元親と交渉していて、元親は信長に従おうとする形跡を見せていた。 しかし、光秀の苦心も空しく、本能寺の変の十日前、信長は四国攻略の為に大軍勢を摂津に集結させていた。 光秀の面目は丸つぶれだった。(昨日見た、「四国説」)
細川藤孝は、天正10(1582)年6月2日、本能寺の変の数時間後、その情報を丹後宮津城で聞く。 すぐに剃髪して、信長への弔意を示す。 6月9日、光秀は藤孝への二度目の手紙(最初の手紙は見つかっていない)で、協力(入魂)を要請、摂津と若狭を与える、息子や忠興の世代に政権を譲る行動で私利私欲ではない、五十日から百日で畿内は平定できる、と伝えた。 足利義昭と連絡した形跡もある。
だが細川藤孝は、宮津城を動かなかった。 京都で、情報を収集させ、光秀の娘で忠興の妻たまを山奥に隠棲させた。 6月13日、明智光秀死去。 7月15日、藤孝は本能寺の焼け跡で信長追悼連歌会を興行する。
秀吉宛の信長の手紙が、細川家に残っている。 稲葉継陽さんは、秀吉から藤孝に転送されたものと推定、両者の軍事的連携は天正8年、9年から進んでいたとする。 秀吉は、宮津城を動かなかった藤孝の動きを高く評価し、血判起請文を送っている。 日和見したのは筒井順慶も同じだったが、藤孝への評価は違った。 井上章一さんは、剃髪し幽斎を名乗り、信長追善の連歌興行をした「文化の力」、磯田道史さんは「ローリスク、中リターン」と。
「古今伝授」と関ヶ原の勝敗 ― 2021/02/03 06:55
つづいて慶長5(1600)年9月15日、天下分け目の関ヶ原の戦いだ。 2か月前の7月18日、細川藤孝のいた丹後田辺城は5百人の兵力だったが、西軍の大軍に囲まれた。 今、熊本市の水前寺成趣園にある「古今伝授の間」は、当時京都御所にあって、藤孝は慶長5年3月、八条宮智仁親王に秘伝を受け継ぐ「古今伝授」を開始した。 8月2日には田辺城で辞世<いにしへも今もかハらぬ世中に心の種をのこすことの葉>を詠む。 関ヶ原前夜、「和歌の道」が藤孝を救った。 井上章一さんが「タヌキ親爺」だという藤孝は、レッスンを積み残したまま、田辺城に籠城した。 動いたのは後陽成天皇(正親町天皇の皇子誠仁(さねひと)親王の第一王子)、藤孝の死によって「古今伝授」が失われることを嘆き、西軍に講和を説く。 9月18日、藤孝は籠城を解いた。 その三日前、関ヶ原の戦いは終わっていた。 西軍の大軍を田辺城に足止めしていたことが、関ヶ原の勝敗に影響した。
家康が天下人になっても、藤孝は江戸幕府の基礎づくりを伝授した。 豊臣家は公家、摂関家になっていた。 室町幕府の武家政治を知っているのは、藤孝だけで、「芸は身を助く」。 細川家は、記録、歴史を大切にした、「ペンは剣よりも強し」の家だと、永青文庫副館長で美術ライターの橋本麻里さん。
だが、本能寺の変の直後、光秀が藤孝に宛てた一通目の手紙、おそらく甘い言葉が連ねてあったであろう手紙が、残っていない。 二通目の、藤孝が協力を断ったことに「腹が立った」という手紙は残した。
磯田道史さんは、細川藤孝を「戦国のオアシス」、信長亡き後、言の葉を集めたことが彼の宇宙観、永遠のものを残した高尚な文化人、最後の中世武士、一番会ってみたい人だと結論した。
ジョナサン・スウィフトと福沢諭吉 ― 2021/02/04 07:05
『ガリヴァー旅行記』、創元社の『世界少年少女文学全集』では阿部知二訳、講談社『世界名作全集』は『ガリバー旅行記』那須辰造訳(余談だが福島正実が早川書房に入ったのは那須の紹介だそうだ)だった。 朝日新聞は昨年6月12日から毎週金曜日(一面全面の)夕刊小説に、ジョナサン・スウィフトの『ガリバー旅行記』Gulliver’s Travelsを柴田元幸訳、平松麻挿絵で、連載している。 原田範行慶應義塾大学教授が監修、注釈をしている。 毎回掲げられている初版の著者と題名は、By Lemuel Gulliver, First a Surgeon and then a Captain of Several Ships.「船医より始めて のちに数船の船長となった レミュエル・ガリバーによる」 Travels into Several Remote Nations of the World. In Four Parts.「世界の遠国への旅行記四篇」。
連載予告(6月5日付)の柴田元幸さん解説によると、スウィフトが『ガリバー旅行記』を書いたのは1720年代、日本では徳川8代将軍吉宗による「享保の改革」の時代だが、その英語原文は案外易しく、現代英語と全然変わらないと思える箇所も少なくないそうだ。 何しろスウィフトは、書いたものを召使いに読んで聞かせ、召使いが「わかりません」と言ったら、書き直したという。 “to be understood by the meanest”(もっとも学のない者にもわかるように)というのが、スウィフトの文章を書く際のモットーだったそうだ。
福沢諭吉が、明治30(1897)年『福沢全集緒言(しょげん)』で、自らの著書について、つとめて難解の文字を避けて、平易を主とし、「これらの書は、教育なき百姓町人輩にわかるのみならず、山出しの下女をして障子越しに聞かしむるも、その何の書たるを知るくらゐにあらざれば、余が本意にあらず」と言っているのと、同じ心掛けだ。 昨日は、スウィフトの168年後に生まれた福沢諭吉の命日だった。
『ガリバー旅行記』の風刺とアイルランド ― 2021/02/05 07:07
昨日、その著者と題名をみた通り、『ガリバー旅行記』の初版が1726年に出版された時、作者ジョナサン・スウィフトの名前は記されていなかった。 ガリバー船長が書いた原稿が、ある人の手に渡り、本になったということにしていた。 作品に含まれる政治や社会への風刺が、イギリスの政界や宮廷の怒りを買うのではないか、と恐れたからで、政治的配慮が働いた結果だと、英文学者の中野好夫は『スウィフト考』(岩波新書・1969年)で指摘しているそうだ。
監修の原田範行さんは、こう解説している。 刊行当時、『ガリバー旅行記』の最大の魅力は、ジャーナリストでもあったスウィフト一流の風刺(satire)だった。 当時のイギリスは、転換期にあって、議会政治と立憲君主制ができあがり、世界でいち早く近代市民社会が形成されていく時代だった。 ダブリン大学卒業後、ロンドン近郊で大物政治家の秘書をしていたスウィフトは、それを間近で目撃した。 ところが、スウィフトはダブリン生まれのアングロ・アイリッシュという出自もあり、結局は思い通りの官職に恵まれず、出世を断たれ、失意のうちに故郷に戻った数年後に『ガリバー旅行記』を書き始めた。
第1部 リリパット国渡航記の皇帝は「オーストリア風の唇」だが、これはハプスブルク家の貴族を暗示する特徴だ。 トーリー党を思わせる「高踵(ハイヒール)党」、ホイッグ党の「低踵(ローヒール)党」が登場する。 ダブリンに帰ったスウィフトは、イングランドの圧政をペンの力で告発した。 中でも、貧困にあえぐ祖国の窮状を憂えた論文「慎(つつ)ましき提案(A Modest Proposal)」は強烈で、のちに夏目漱石が意気に感じて『文学評論』の中で一部邦訳しているそうだ。 第3部にはスタジオジブリの映画『天空の城ラプュタ』のモデルにもなったラピュータが登場するが、このラピュータに搾取されるバルニバービがアイルランドを下敷きにしているのは明白で、こんにち、スウィフトはアイルランドでは英雄だと、原田範行さんは、書いている。
ちょっと脱線するが、節分に、アイルランド産の本まぐろの中トロを美味しく食べた。 正月に食べたトルコ産中トロより美味しいような気がした。
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