祖母、駿河台の井上眼科へ挨拶に2021/11/17 07:29

 私が子供の頃、その祖母(しず)が正月などに時折、駿河台の井上眼科病院へ挨拶に行っていた。 井上眼科は有名な眼科の名門病院だ。 昨日(もとは2016年8月)に静岡のMという眼科医と書いたMは、実は丸尾で、私の曽祖父に当るのは丸尾興堂(天保11(1840)年-大正3(1914)年、享年75)、祖父は丸尾晉(明治8(1875)年-大正10(1921)年9月、享年47)という。 私の両親は長男に、晉の字を取って晉一と名付けている。 祖父のような人になってもらいたいという思いがあったのだろう。 祖父が亡くなった時、祖母は25歳で、19歳の時産んだ6歳の私の母を頭に男と女の幼児を抱えていた。 丸尾の本家との関係はまったく聞いていないのでわからないが、その折におそらく祖父の知人である井上眼科の井上達二さん(昭和51(1976)年までご存命)にお世話になったというようなことがあったのであろう。 私は井上靖のおかの婆さんが、松本順をこの世で最も尊敬する人物としていた話を連想するのだ。

 井上眼科病院の沿革を、医療法人社団 済安堂 井上眼科病院グループのホームページなどで見る。 阿波徳島藩医井上肇堂(ちょうどう)の四男、井上達也(嘉永元(1848)年-明治28(1895)年)が大学東校でB・ミュラーの指導を受け、東京医学校と改称した母校(東京帝国大学)で明治8年日本人初の眼科学教授となる。 明治14(1881)年、駿河台に済安堂医院(井上眼科病院)を創立、独・仏に留学、当時の先端の眼科学を吸収して帰国した。 明治23(1890)年に完成した4階建煉瓦造の新病院には画期的な設備を完備、白内障手術の第一人者であり、眼科学会の前身となった「井上眼科研究会」の会頭だった。

 達也の次男井上達二(明治14(1881)年-昭和51(1976)年)が東大眼科を経てドイツ留学から帰国し、明治42(1909)年、第7代院長に就任した。 達二は明治・大正・昭和の3代の長きにわたって院長を務めた。

 祖父に当る丸尾晉は、明治8(1875)年生れ、東京帝国大学に学び、眼科を専攻、同校助手となり、附属病院に勤務した。 明治39(1906)年、静岡市の本院を中心に静岡県内各地に分院や出張所のあった父興堂の復明館眼科医院を継ぎ、眼科研究のため欧州遊学の途に上り、ドイツ、オーストリアの大学や英、仏の医科大学を視察して、療法施設の実況を学んだ。 おそらく東京帝国大学時代に井上達也と、ドイツ留学時代に井上達二と関係があり、もっと言えば丸尾と井上の親子二代にわたる交流があったのであろう。

 たまたま、井上眼科病院と復明館眼科医院の関係を示すものを読んだので、それは明日紹介したい。

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