前川清の『ファミリーヒストリー』、カトリック2022/03/29 06:55

 そこで前川清の『ファミリーヒストリー』だが(以下、敬称略)、祖父の伯父七平が大工で、ド・ロ神父が建てた仮聖堂や、平戸の田平天主堂の建築に関わり、明治36(1903)年61歳で亡くなった。 祖父の代作も大工で、明治38(1905)年に七平を相続している。 父海蔵は、出津教会で洗礼を受け、洗礼名ヨゼフは労働者の守護聖人だ。 代作は30歳の時、長崎市水の浦町に移住、すぐそばの三菱長崎造船所の木工職人として船の内装に従事した。 三菱長崎造船所は、大正2(1913)年からの3年間で3倍の規模になり、2万5千人が働いていたという。 父海蔵は、飽浦小学校を昭和2(1927)年に卒業、やはり三菱長崎造船所に勤めた。 一時は、天中軒雲月に憧れ、浪曲師を目指したこともあった。

 海蔵は、25歳の昭和13(1938)年3月、飽浦教会で今村ハツ22歳と結婚した。 ハツも、西彼杵郡外海(そとめ)の出身で、家は農業だった。 大正4年5月生まれ、昭和3(1928)年に小学校を卒業すると、看護婦になり、昭和10(1937)年に開業した井手外科病院では長崎医科大学病院から来てもらったという。 昭和13(1938)年に結婚した海蔵とハツは、香焼(こうやき)町に住み、川南造船所に勤めていた。 海蔵は、昭和16(1941)年に召集され、旧満州に出征した。 昭和20(1941)年8月6日、長崎原爆、ハツは外海に疎開していた。 敗戦後、海蔵は凌水屯(?)で極寒のソ連の労務に従事させられていたが、昭和22(1947)年2月28日、佐世保に引揚、復員した。

 前川清は、佐世保市で昭和23(1948)年8月19日に誕生、俵町教会でセバスチャンという洗礼名を授けられた。 母ハツは、俵町教会の婦人会長で、困った人の世話をしていた。 父海蔵は、米軍基地で働き、SHIP REPAIRの大工仕事には熱心だったが、戦争体験から人柄がすっかり変わっており、アル中になっていた。 清の兄武に、厳しく接した。 武は11歳の昭和27(1952)年8月、日射病で亡くなる。

 清も、小学校3年生の時、変形性股関節症を発症、母ハツは山手小学校まで負ぶって通い、教室で編み物をしていた。 当時の担任、出口博子さん92歳が、その思い出を語っていた。 清が野球をしていると、父の機嫌がよく、プロ野球選手を目指して、長崎市のカトリック系の南山高校へ進んだ。 当時の野球部員の級友は、清を、温かい思いやりのある男だった、と話す。 前田万葉大阪教区枢機卿も、同期生だった。 しかし、2年生の5月、再び股関節が痛くなる。 両親には内緒で、高校を中退、次姉を頼って名古屋へ行く。

 昭和43(1968)年、長崎で20歳の清が、アルバイトのキャバレーで歌っていると、クール・ファイブの小林正樹に声をかけられ、リードボーカルとして参加する。 東京のレコード会社からレコーディングの話があり、内山田洋だけが乗り気、皆半信半疑で「思い出のため」と、生まれて初めて東京へ。 その「長崎は今日も雨だった」が大ヒットとなった。 両親は大喜び。

 長姉の住む大阪で、父海蔵は、昭和51(1976)年に62歳で亡くなった。 母ハツは、カトリック平野教会で、69名のベトナム難民を受け入れたり、たくさんの困っている人を助ける社会福祉活動に従事した。 平成4(1992)年2月4日、76歳で亡くなったが、「これでやっと武の事が忘れられる」と言い残したそうだ。 ずっと、幼くして亡くした長男のことが悔やまれていたのだろう。 葬儀には、会場からあふれるほどの人々がかけつけた。 前川清は母親をハワイ旅行などに誘ったが、いつも旅行などよりお金をくれと、言っていたそうだ。 そういうお金は、すべて人への思いやり、社会福祉活動に使われていた。 葬儀の礼状に、「愛は寛容にして慈悲深く、愛はねたまず、高ぶらず、誇らない」(新約聖書、コリントの信徒への手紙一 第13章4節)とあったという。