間宮アキラ、ベルリンの恋2022/07/25 07:09

 北杜夫の「星のない街路」のつづき。 娘が手洗いに立った。 その力ない後ろ姿が殊さらに間宮の心を刺した。 テーブルの向い側で、米空軍の曹長と陽気に飲んでいた老娼婦が、間宮を見て笑いかけてきた。 灰色の目が柔和で、見るからに気っぷのいい女らしかった。 彼は思いついて、ポケットから5マルク貨をとりだし、脂肪肥りのした女の手に握らしてやった。 「あの子の意向を確かめてくれないか。彼女の発音は僕にはわかりにくいんだ」 「あいよ」老娼婦は相好を崩して合点してみせた。 「ホテルへ連れていくつもり?」 「いや。……彼女は素人かしら」 「素人らしいね。待ってな。あたしがうまく訊いてやるから」

 間宮が手洗いに行って戻ると、老娼婦は間宮の肩を叩き、「うまくおやり!」と物分りのいい母親のような調子で言った。 「今晩どうするつもり?」 収容所へ帰るよりないが、気のりはしない、と娘はぼそぼそと言った。 「お金がないならホテルへ連れてっておもらいよ」と、前の席から老娼婦が如才なく口をはさんだ。 「あたしが知ってるホテルに電話かけてやるよ」 若い女は黙ったままだったが、結局了承した様子だった。

 車を拾うまえに、間宮は屋台でソーセージを食べた。 娘は腹はすいていないと言ったものの、ほとんどがつがつ食べた。 タクシーの中でも黙りこくって、痴呆のようにうしろに寄りかかっている。 それがまた間宮の心を緊めつけた。

 安っぽいホテルの二階の部屋に入った。 適当な言葉も見つからぬまま、彼は煙草を吸い終ってから、無言で服をぬぎだした。 それまで気の抜けたようにベッドに腰かけていた彼女は、ふいに立上り、下をむいてそろそろと白いブラウスを脱ぎ始めた。 ぎごちなくそろそろと、それから急にそそくさとシュミーズだけになって、先にベッドの中にもぐりこんでいった。 そのどこか投げやりな諦めきったような態度が、三たび間宮の心を緊めつけた。

 間宮は彼女の髪をそっといじり、やせた肩を撫でた。 身を固くしているのが感じられた。 それから女はだしぬけにこちらを向いた。 冷たい額にキスをすると、彼女はじっと目をつぶったままで、ただ口の辺りがひくひくと動いた。 口紅もつけていない、乾いて色あせた、それだけかえって若々しい唇であった。

 女がはじめて目をあけたとき、間宮は訳もない動悸を覚えた。 その青い瞳孔が、思いがけぬほど澄んで、うるおって、非常にいじらしく見えたからである。

 「君は幾つ?」 君(ドウ)という呼びかけがこのときごく自然に出た。 「17」 「ええと、名前はなんだっけ?」 間宮は言ってから少し可笑しくなった。 それまで名を訊くことも思いつかなかったのだ。 女も気がほぐれたらしく、ためらうように白い歯を見せた。 「アルムート。アルムート・マイスナー、あなたは?」 「アキラ・マミヤ」 「そう? アキラ、アキラ」女は低く口のなかで繰返し、また白い歯を見せた。

 その口の上に、間宮はそっと自分の口を重ねた。 そして、やがて彼女の唇が自分から彼の唇を求め、閉じた睫毛がふるえるのを見たとき、彼はこの娘を恋していた。

等々力短信 第1157号は…2022/07/25 07:11

<等々力短信 第1157号 2022(令和4).7.25.>杉本博司さんの「江之浦測候所」 は、7月18日にアップしました。7月18日をご覧ください。