「榎本武揚」で<小人閑居日記>を検索(その2)2022/11/21 07:02

〇松本良順の洋式病院「早稲田蘭疇医院」<小人閑居日記 2017.7.14.>(この件、平井一麥さんから頂いた本によったのだった。)

松本良順は維新の戦いで弟子の医師たち9名で幕軍方に投じ、会津で戦傷者の治療に当たり、鶴岡まで行く。 仙台の榎本武揚からの書状で、松島湾に碇泊中の「開陽丸」に行き会見、蝦夷への同行を勧められるが、土方歳三が「先生は前途有為なお方です。戦乱に巻き込まれ、命を失うようなことがあってはなりません。江戸にお帰り下さい。私のような武事以外に能なき者は、力のかぎり奮戦し国のために殉ずるのが定め。」と説いた。 良順は土方の言葉に従い、オランダの武器商人スネルのホルカン号で横浜へ密航し、横浜のスネルの商館に1か月ほど身を隠していたが、官軍に捕らわれ取り調べの後、本郷加賀屋敷に幽閉の身となる。

〇ペリー来航150年の久里浜浦賀へ行く・中島三郎助[昔、書いた福沢176]<小人閑居日記 2019.12.20.>

浦賀港を見下ろす愛宕山公園に登って、「咸臨丸出航の碑」(昭和35年(1960)年建碑、裏に咸臨丸乗組員全員の名前が刻んである)、『福翁自伝』に「いま浦賀の公園に立ってある」と出て来る中島三郎助の招魂碑も見た。(福沢にとっては、二度目の訪米時の小野友五郎との一件での恩人でもある)中島三郎助、戊辰戦争では榎本武揚に従って函館まで行き、五稜郭の戦いで恒太郎、房次郎の二子とともに奮戦して死んだ。 中島一家戦死の翌々日、榎本武揚は官軍に降参し、戦争が終わる。

〇清水の次郎長と咸臨丸〔昔、書いた福沢90〕<小人閑居日記 2019.7.31.>

明治元年9月18日、清水港で修理中の咸臨丸が政府の軍艦三隻に攻撃される事件があり、放置された幕臣の遺体を清水の次郎長が「仏に官軍も賊軍もあるものか」と葬った。明治20年、清水市興津の清見寺で旧幕臣たちによる盛大な慰霊祭が行なわれ、榎本武揚が「食人之食者死人之事(人の食を食む者は人の事に死す)」と揮毫した立派な石碑が建てられた。 福沢諭吉は明治23年1月、清見寺でこの碑を見て、『史記』にある「二君には仕えない」というこの言葉に感ずるところがあり、すぐに榎本武揚と勝海舟に宛てた『痩我慢の説』を書いたと伝えられている。

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