お六と文耕、吉原の俵屋小三郎の縁2024/08/03 07:06

 馬場文耕が出会った当時、惣助はもう労咳(ろうがい)にかかっており、やがて重い荷を背負って顧客の所を回ることができなくなった。 そして、一年ほどすると、寝込んでしまった。 それまで娘のお六は、他の町家の娘と同じように三味線や長唄などを習っていたが、惣助が寝込むと稽古事をすっぱりやめ、看病に専心するようになった。 文耕は、惣助が他の貸本屋や書肆に顔をつないでおいてくれたおかげで、筆耕の仕事に困ることはなかった。 だが他人を助ける余力はなく、働けなくなった惣助の借財がしだいに増していくのを黙って見ているしかできないのが情けなかった。

 お六が十七歳になったとき、惣助の余命がいくばくもないと医師に告げられた。 すると、お六は、長唄の師匠に、稽古のために出入りしている深川仲町の娼楼を紹介してもらい、ひとりで訪ねた。 そして、借金の総額である三十両で身を売ることを自ら申し出た。 ただし、父が息を引き取るまで看病させてほしい。 葬儀が終わったら、翌日からお勤めをさせていただきますと付け加えた。

 楼主は、小娘がすべての物事をひとりで進めようとしているその健気な様を見て、これは面白いと判断した。 しかも、長唄の筋がいいことは師匠の折り紙付きだし、器量もいい、お六の申し出を受け入れた。

 深川仲町で芸者になったお六は、文耕と里見が出会った翌日に文耕を訪ねてくる宝暦七年まで、「怪動」の手入れで二度捕まっていた。 最初のときは、江戸に戻ってきてまだ日の浅かった文耕には、何もしてやることができなかった。 そのためお六は、二十四カ月、丸二年というもの、吉原の京町にある長崎屋という妓楼で遊女として荒い勤めをさせられることになった。 だが、そこから深川に戻って一年半後に、また捕まってしまったときは、文耕がたまたま知り合うことになった京町の楼主、俵屋小三郎に頼んで落札してもらい、遊女ではなく芸者として扱ってもらうことができていた。

 俵屋小三郎は、五年前に文耕が富沢町の常磐津の師匠宅で夜講をするのを聞き、文耕の十蔵長屋を訪ねて来た。 俵屋は兄が死んでやむなく継いだ小見世で、大見世を目指して高嶺の花の太夫など必要としない。 だが、流行らせなければならない、そのためには人気の遊女を生み出す必要がある。 その遊女を見たいと思わせ、できれば遊びたいと思わせるようにしなくてはならない。 そういう講釈をつくってもらえないかという頼みだった。 文耕は、講釈というものを妓楼を喧伝するための手段とすることなどできない、と断った。

 俵屋は、たびたび立ち寄り、話をし、帰る時に決まって、まだ気は変りませんか、と訊ねた。 変らない、と答えると、嬉しそうに高笑いしながら部屋を出ていくのだ。 そして四年前、お六が二度目の「怪動」で捕まった。 文耕は吉原の俵屋に赴き、お六を引き取ってもらい、扱いを手加減してもらえないか、と頼んだ。 小三郎は、余計なことはいっさい言わず、俵屋に下げ渡してもらえるよう努めてみると約した。 交換条件として、お六の人気を高めるような話をしてほしいと頼む。 それはできない、と断ったが、小三郎はせめて読物にお六のことを書いてくれないかという。 もし書いてくれるなら、お六を引き取り、遊女としてではなく、芸者として扱うことを約束すると言った。

 十日後、お六が正式に俵屋に下げ渡されたとの連絡を受けると、文耕はわずか七日でひとつの読物を書き上げた。 三人の深川芸者についての話、題して『富賀川堤三本桜』。 お六については、前句付の会での鮮やかな振る舞いを克明に描き、「怪動」で捕まって、いまは吉原の俵屋にいると書き添えた。 貸本屋に出回る写本が主だったが、じわじわと評判になり、そこからお六の人気が高くなっていった。 そして美登里と名を変えたお六目当ての客が、俵屋に押しかけるようになった。