梅木忠朴という人物 ― 2006/12/08 07:09
そこで梅木忠朴がどんな人だったかということになる。 これからも松崎欣 一先生のご本による。
松山中学出身の哲学者安倍能成は『我が生ひ立ち』の中に「英語の先生は梅 木忠朴といって、顔の大きな色の青い先生で、漱石の「坊ちゃん」のうらなり は、この先生から思いついたのじゃないかと思はれるくらゐ、ふだんは元気が ないのに、慶應義塾の出身で、教授中話が一度義塾のことになると、急に元気 が出て談論風発の概があった」「噂によると犬養だとか尾崎だとかの、塾での後 輩だったらしく、在学当時は大分将来を嘱望された人物だったといふが、その 英読といふのが実に日本的朗読であって(中略)実に退屈極まるものだった」 「この人は酒は中々いける口で、貧乏暮しの中にも、晩酌は盛んにやられたら しい」とある。
梅木晩年の昭和3年頃、五男の標(こずえ)に夏目漱石の印象を語った回想 が記録されている。 外人教師の後任として赴任してきた漱石は、鼻下にひげ をたくわえた小柄な男で、黒ダブルの背広に蝶ネクタイ、江戸っ子のハイカラ 紳士だった。 一週間ばかりしても、あまり話し合うことがないので、いやに 江戸っ子風を吹かして生意気な青二才だと思った。 それというのも先輩(の 自分や同じ英語教師の西川忠太郎)を通り越した上席で、月給が自分よりも倍 も上、それどころか住田校長(タヌキとルビ、漱石が『坊つちやん』でこの校 長の名を温泉町の名にしたことに今、気づいた)よりも20円も高かった。
この回想を紹介した新垣宏一氏(筆名・新開宏樹)『坊ちゃん―阿波のモデル たち―』(『徳島新聞』昭和48年6月連載分)には、慶應義塾を卒業した梅木 は本来そのまま東京に留まり、先輩である犬養毅や尾崎行雄の後に続き、さら に大隈重信について政官界に雄飛することを望んでいたのではないかと推定さ れること、しかし、明治14年の政変による大隈の下野とともに、その配下に あった多くの慶應義塾出身の俊秀たちが政官界を離れ、それを契機に将来の展 望を失って、やがて初志を断念して東京を去ったのであろうという、興味深い 分析もあるそうだ。
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