梅木忠朴のその後2006/12/09 06:57

 きょうは夏目漱石の命日、1916(大正5)年から90年になる。 今年は『坊 つちやん』100年でもある(初出は『ホトトギス』1906(明治39)年4月号)。

 梅木忠朴は、日向の延岡には行かなかった。 松山中学の英語教師を10年 間やり、明治37年に退職した。 漱石が去った後も、8年間は松山にいたこと になる。 ただ玉川町の先祖伝来の屋敷を全部飲みつくしたという大酒のみで、 他人の借金を背負ったりする人のよさもあって、屋敷を手放し、松山にいられ なくなって、また神戸へ移っている。 兵庫高等小学校や市立兵庫実業補習学 校に勤務した後、竹材貿易商社の長田大介商店で翻訳の仕事を続けた。 5人 の息子と2人の娘、孫に囲まれて平穏な晩年の日々を過し、昭和10年3月に 78歳で亡くなったという。

 この時、長男の憲一郎は神戸日日新聞の経済部長(『神戸又新日報』)か主筆 (『大阪毎日新聞』)だった。 梅木忠朴は、松山へ帰る前の神戸時代に同じ旧 松山藩士の娘西村ヨシと結婚(忠朴の帰郷を待ちわびた父・忠順が送ったとい う)、4人の息子が生れている。 その息子たちに、憲一郎(明治22年2月12 日生)、祭二郎(23年3月21日生)、政治郎(25年1月24日生)、馨(27年 5月17日生)と名づけた。 松崎欣一先生はここにも、帝国憲法発布や帝国議 会開設などを寿いでそれに因んで命名した以上に、梅木忠朴の政治の世界への 複雑な感慨があったことが窺われる、という。 明治14年の政変による東京 での環境の激変に加え、何とかして手元に呼び戻そうと英語教師の働き口を探 し、家督相続者としての帰郷を促す父・忠順の厳命によって、梅木忠朴は松山 に帰った。 梅木のはじめの神戸時代は、むしろ松山に帰ることへのいささか の抵抗としての滞留だと、松崎先生は推量している。