幕末・維新史の中の「議会論」2006/12/24 07:06

 宿題の最後は、12月9日交詢社での福澤諭吉協会の第100回土曜セミナー、 坂野(ばんの)潤治東京大学名誉教授の「幕末・維新史における議会と憲法― 交詢社私擬憲法の位置づけのために―」。 思想史と政治史のドッキングがその 年来の手法だという坂野さんの話は、司馬遼太郎でも読んでいるように、とて も面白かった。

 話は元治元(1864)年旧暦9月大坂での、西郷隆盛(や吉井友実)と勝海舟 の最初の会談から始まる。 西郷に会談を依頼した大久保利通への報告に、西 郷は勝を論破するつもりで会い、勝の人物と見識に「とんと頭を下げ」「ひどく 惚れ申し候」と書いている。 このことは、三年半後の江戸無血開城にもつな がる。 その会談で勝は、「攘夷」でも「屈服」でもない欧米列強との関係「対 等開国論」(その元祖は佐久間象山)と、公武合体派の雄藩、薩摩、越前、土佐、 肥前、宇和島の「藩主(士)会議」をセットにした時局打開の方策を語った。  雄藩の藩主が一致団結して、開国主義を前提にした強硬外交をもって、欧米列 強と対等な関係で「開国」を完成しようというのだ。

 この「藩主(士)会議」の構想は、幕臣で勝の友人の大久保忠寛(一翁)が 本家で、文久3(1863)年、越前の松平慶永に説いたのが最初だとされる。 坂 野さんの話は、「憲法論」と「政治論」は違うと指摘し、「憲法」と「議会」の 関係を問題にするところが重要だ。 この大久保忠寛に始まり、明治4(1871) 年7月の廃藩置県までの8年間、(幕末)「議会論」は日本の政治の主流といっ ていいほどの地位を占めていた、とする。 勝によって「幕末議会論」は、薩 摩藩の革命家、西郷隆盛や吉井友実、さらに二人から大久保利通に受け容れら れ、政治的実践の目標になる。 慶応3(1867)年の「大政奉還」と「王政復 古」(1868年1月)の基となった薩摩藩と土佐藩の「薩土盟約」(1867年旧暦 6月)は、きわめて明確な形で二院制議会を提唱している。 大名(藩主)会 議(上院)と、藩士会議(下院)だ。 大政奉還後の政治体制は、800万石な がら一大名となった徳川慶喜も加えた大名議会で決めるというのが、「薩土盟 約」以来のコンセンサスだった。 封建議会制による無血革命の筈が、明治元 年の戊辰戦争による武力革命になってしまったわけだ。