「交詢社私擬憲法」の画期性と孤立性2006/12/25 07:08

 坂野潤治さんが、「憲法」と「議会」の関係を問題にするのは、ここからだ。  大久保忠寛、1864年勝・西郷会談、「薩土盟約」(1867年旧暦6月)と流れて くる「幕末議会論」による将軍制度の平和的廃止には、「議会論」はあっても、 「憲法論」はなかった。 議院内閣制においては、憲法(あるいは不文律)の 規定によって、行政府の権限と議会の権限が定められ、議会の多数党が行政府 を握るのである。 大政奉還後、「朝廷」が自ら行政府にならないかぎり、新政 治体制には行政府、すなわち「政府」が存在しない。 権力政治的に見れば、 この「政府」は徳川家を中心に組織されるか、あるいは薩長両藩を中心に組織 されるかのどちらかであり、政治史的に見れば、それを決めたのは鳥羽・伏見 の戦いである。 一戦やって勝った方が「政府」を握る。 しかし、中央政府 の権限もその正統性も、明治4年7月の廃藩置県までは、そう簡単には決まら なかった。 戊辰戦争に勝った薩長土の三勢力が握れた政府の権限は、旧徳川 家の800万石だけだった。 他の2千万石の年貢の「財権」も、軍隊の「兵権」 も、大小270の藩が握っていた。 王政復古後の明治政府の正統性も権限もき わめて限られたものだったことは、幕末・維新史において「議会論」はあって も「憲法論」がなかったことと符合するのだ。 「憲法」は「行政府」と「立 法府」の双方の権限を定めるために必要なのだ。 「行政府」の正統性も権限 も不完全な間は、「憲法論」そのものが不要だったのである。

 廃藩置県で各藩の「財権」と「兵権」が中央政府に吸収された時に、「憲法」 の必要性にいち早く気づいた木戸孝允は岩倉使節団で、欧米各国の「憲法」に 焦点を定めて視察してきた。 そしてドイツ憲法を模範にすることを決めた。  坂野さんは、戊辰戦争で名を馳せた、いわば武闘派の板垣退助には「民選議院 設立建白書」など書けない、それは幕末議会論と自由民権論の連続性を示す、 とする。 憲法論抜きの幕末議会論が板垣退助らの愛国社に受け継がれ、木戸 孝允のドイツ型憲法が明治14(1881)年4月の「交詢社私擬憲法」(イギリス 型議院内閣制←馬場注記)の画期性と孤立性をもたらした。 それは幕末以来 初めての、「憲法論」と「議会論」の結合だったのである。 それがいわば「議会論」抜きの「憲法論」(井上毅)と、「憲法論」抜きの「議会論」(板垣退助)の挟み撃ちに合った時、明治14年の政変が起こった、と坂野さんはいう。

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