荘田平五郎の人物、慶應から三菱へ2006/12/16 07:09

 11月17日の武田晴人東京大学大学院経済学研究科教授の「荘田平五郎と三 菱の経営近代化」。 荘田平五郎(弘化4・1847-大正11・1922)は、豊後(大 分)臼杵藩の藩儒の長子で、20余年にわたって儒学を修めた上士であることが、 その事業観、経営者としての行動原理に反映していた→荘田の「公」意識、企 業の社会的貢献重視の姿勢(竹村英二「荘田平五郎の言動と武士的素養」)。 慶 應3・1867年、洋学奨励の布告に沿い、選抜されて江戸遊学。 明治3・1870 年、慶應義塾入塾、平五郎の才能を高く買った福沢は、入塾4か月後、教師待 遇とする。 『帳合之法』(複式簿記)の訳業に参加、明治5・1872年には大 阪に赴任し分校の設立に努める。 明治7・1874年、三田に戻り、教鞭をとる。  経済学を講じたばかりでなく、商業数学・簿記などをカリキュラムに入れるこ とに熱心だった。

 明治8・1875年、三菱に翻訳係として入る。 福沢は「学問をやらしても、 算盤を弾かしても、荘田はふたつながらにできる」と評価。 入社の年に制定 された「三菱汽船会社規則」の起草に参画したと推定され、翌明治9・1876年、 会計係に配置転換、その後三菱汽船会社の経理規程「郵便汽船三菱会社簿記法」 をまとめた。 これにより三菱は、大福帳経営を脱し、日本で初めて複式簿記 を採用し、徐々に近代的な経営システムを確立した。

 荘田平五郎は、慶應義塾でもそうだったが、三菱でも、数か月で頭角を現し、 周囲から尊敬される人物となるのだった。 岩崎弥太郎たちも荘田の才能・能 力を認め、荘田は三菱に不可欠の人材になっていく。

荘田平五郎と三菱の経営近代化2006/12/17 07:11

 荘田平五郎が三菱の経営近代化に、どんな役割を果し、功績があったか。  (1)管理的組織の整備。 昨日みた「郵便汽船三菱会社簿記法」の制定以下、 三菱社・三菱合資会社の会計・管理規定の整備を推進した。 三菱における近 代的簿記法の導入、複式簿記の採用(これに対し、例えば古河は明治30年頃 まで大福帳で、足尾鉱毒事件で必要になった100万円を借りようとして、渋沢 栄一の第一銀行に帳簿の整備を求められている)。 各事業所からの月次報告を 出させることで本社が情報を掌握する集権的管理の条件を整備した。

 (2)事業経営の多角化。 そのタネを蒔き、育てた。 一つは明治22・1889 年の三菱地所の丸の内計画。 もう一つは、銀行経営。 臼杵藩士族が共同出 資して設立した第百十九銀行を救済して、三菱合資会社銀行部をつくる。 そ れが日清戦争の時期に、ようやく三菱銀行になる。

 (3)造船・重工業の確立。 官営だった長崎造船所の経営を引き受け、改 革した。 政府からは八幡製鉄所についても打診があり、当時の三菱には造船 か製鉄かの選択肢があったが、造船を選んだ。 荘田は三菱の経営トップのま ま、自ら長崎造船所所長となって、家族を連れ長崎に行った。 造船所は修理 だけでも仕事が沢山あり、それは短期で回転し収益もあったが、あえてリスク のある新造船へと舵を切った。 大型船建造の指揮をとり、会計組織を改革し、 従業員の福利厚生にも配慮した。

 荘田平五郎の事業観の、「公」意識、企業の社会的貢献重視の姿勢というのは、 「財閥は人のやれない難事業を引き受けて国家に報いるべきだ」というその信 念や、事業の育成よりも目先の利益を優先したり、投機的な会社設立に奔走す る企(事)業家への批判にあらわれている。

日本史における「会社」2006/12/18 07:57

 ついで12月1日の高村直助横浜市歴史博物館館長の「会社の誕生」。 高村 さんは東大や共立女子大で教えた日本近代史の専門家だそうだ。 1996年に 『会社の誕生』(吉川弘文館・歴史文化ライブラリー6)を出し、それ以後考え たことを今年『明治経済史再考』(ミネルヴァ書房)の「「会社」との出会い」 にまとめたという。

 まず日本史における「会社」を考察する。 かねてから明治の工業化の急激 な発達の不思議に注目していて、『会社の誕生』ではハードの機械の輸入に加え て、会社の組織などのソフト面の大事なことを論じた。 江戸時代に「会社」 はあったか? 株式会社のようなものは見当たらない。 合資会社・合名会社 にあたるものは若干ある。 明治になってから断絶というか、大きな飛躍があ り、明治10年代に企業が勃興した。 特に明治19・1886年から22・1889年、 鉄道、紡績などが、政府の誘導でなく民間で動き始める。 明治の後期に盛ん になった。 江戸と明治のギャップを埋めたものは、江戸時代の前提があった。  まず株式会社の要素がすでにあった。 三井や鴻池などに、所有と経営の分離 の前史がある。 出資だけをする有限責任の前史「加入」という制度もあった。  大名貸しや廻船などに出資し、利子だけをもらう匿名組合のようなものもあっ た。 福沢『西洋事情初編』(慶応2・1866年)「商人会社」の影響も大きい。

「会社」という言葉2006/12/19 07:14

 高村直助さんの「会社の誕生」を聴きに演説館に入ったら、福澤諭吉協会の 守田満さんがレジメを読んでいらして、「馬場さんの文献が出ていますよ」と言 う。 違います、と説明する。 馬場宏二さんの『会社という言葉』(大東文化 大学・2001年)で、『福沢手帖』にも寄稿があって紛らわしいのだが、あちら は「ひろじ」さん、高村直助さんの先輩にあたるというから元東大教授、今は 大東文化大学教授なのだろう。 大先生である。

 高村直助さんは、「会社」という言葉が使われるようになった歴史を、もっぱ ら馬場宏二さんの『会社という言葉』に沿って説明した。 福沢諭吉は『西洋 事情初編』(慶応2・1866年)の「商人会社」によって、会社制度の紹介者と して先駆者の一人であった。 会社概念の導入者として小栗上野介につづいて 二番手だという説があり、最初の人とさえなし得る。 「会社」という言葉の 創案者だという説もある。 だが、そのいずれにも疑問を投じ得る、というの だ。

 「会社」は、蘭学者が翻訳に際して造り出した和製漢語だった。 「会社」 の初出は、杉田玄白の孫の玄瑞が訳したプリンセン著『地学正宗』(嘉永4・1851 年)で、原語はgenootschap (学会)、maatschappij(組合)、それを「会社」 と訳した。 つまり共同出資の営利企業の意味ではない。 「商社」(も和製漢 語)の初出は、開明派幕僚・長崎奉行岡部駿河守長常の共同出資企業提言(万 延元・1860年12月←馬場宏二さんは『福沢手帖』110号で1861年としてい る)で、原語はおそらくhandelmaatschappij。 その後、compagnie やcompany の訳語としても「商社」が使われるようになった。

渋沢栄一と「会社」の普及2006/12/20 07:48

 compagnie やcompanyを最初に「商社」と訳した人は、わからないそうだ。  やがて「商社」から「会社」へと変って行く。 その画期になったのは、これ も馬場宏二さんによるが、渋沢栄一だろうという。 明治元・1868年10月、 大蔵省に出仕した渋沢は改正掛のリーダーとして新国家の制度作りに携わる。  渋沢(というより吉田二郎←『福沢手帖』110号)がしかるべき調査によって 著した『立会(りゅうかい)略則』(明治4・1871年9月)では、「通商会社」 として株式会社の組織について、「為替会社」として銀行の組織と業務について の解説がなされる。 府県レベルの役人が実際の事務に使うために同月「大蔵 省事務章程」、「県治事務章程」(明治4・1871年11月)が作られる。 前者に は「第十八条 通商並勧農ノ事」に「附諸会社ノ事」があり、後者には「第二 十二条 諸会社ヲ許ス事」があった。 公用語として「会社」と決められたわ けで、これが「会社」が広まった有力な原因になったのだろうという。

 幕末の段階では、外国と競争することもあって営利企業といえば「貿易」だ ったから「商社」がぴったりだった。 それが明治になって、貿易・商業に限 定しない広い意味に使うために「会社」になっていったのではないか、という。

 渋沢栄一と聞いて、この時、私が思ったのは、渋沢が静岡藩でやった合本組 織(株式会社)「商法会所」のことだった。 渋沢は徳川昭武についてフランス に行っている内に幕府が瓦解、徳川家は七十万石の静岡藩になってしまった。  渋沢は大蔵省に出仕する前、その静岡藩で、フランスで学んできた株式会社制 度を「合本組織」と呼んで実験し、一応の成功をおさめたのであった。 高村 直助さんはそれを当然ご存知だったろうが、言及はなかった。