「酒組」「菓子組」2006/12/11 07:53

 種村季弘さんはかなりの飲み手だったらしく、『雨の日はソファで散歩』には そうした話がよく出てくる。 江戸時代の随筆にある大酒大食の話が面白い。  嘘譚、つまりホラ話の可能性もあるらしいが、世の評判を呼んだ文化14年丙 丑3月23日両国柳橋の万屋八郎兵衛方で行われた大酒大食の興行というのが ある。 「酒組」では、堺屋忠蔵(丑68歳)が3升入り盃にて3盃。 若い 鯉屋利兵衛(30)が同6盃半、「其座にて倒れ、よほどの間休息致し、目を覚 し茶碗にて水17盃飲む」。 5升入丼鉢にて1盃半やった天堀屋七右衛門(71) は「直に帰り、聖堂の土手に倒れ、明七時迄打臥す」。

 「菓子組」がすごい。 丸屋勘右衛門(56)饅頭50、羊肝(ようかん)7棹、 薄皮餅30、茶19はい。 伊予屋清兵衛(65)まんぢう30、鶯餅80、松風せ んべい30枚、沢庵の香の物丸のまゝ5本。 「飯組」は「常の茶漬茶碗にて、 万年味噌にて、茶づけ、香の物ばかり」で、泉屋吉蔵(73)は飯54盃、たう がらし58、上総屋茂左衛門(49)が飯47盃、若い三右衛門(41)飯68盃、 醤油2合。

 私は下戸だから、いわば「菓子組」。 6日銀座の資生堂パーラー・ファロで の某忘年会の帰り新橋に出て、並木通り土橋の櫻家で土産に「たい焼」を買っ た。 1匹150円。 温ったかいのを持って地下鉄に乗ると、テレビ屋らしい 若い男が二人「いい匂いだな」「パンかな」と言った。

この季節、今はなき8丁目千疋屋の苺のショートケーキの味が忘れられない。  9日交詢社での福澤諭吉協会第100回土曜セミナーの帰り、5丁目の銀座千疋 屋に寄る。 クリスマスの前倒し、清水の舞台から飛び降りたつもりで、苺の ショートケーキを張り込む。 一つが「たい焼」7匹分だった。

「和菓子」と伝統の力2006/12/12 08:17

 「菓子組」で思い出したのだが、先月赤坂の虎屋ギャラリーでやっていた「和 菓子アート展」を、家内がどうしても見たいというので、最終日に見に行った。  5人のいろいろな分野のアーティストが、和菓子をテーマにした作品をつくっ ていた。 「さわって遊べる木の和菓子」の青柳豊和さん、西ノ内和紙を菓子 木型に押し付けて制作した「和菓紙」の永田哲也さん、極小のミニチュア菓子 を樹脂粘土でつくった福留千夏さん、ふだん透明樹脂の中に岩絵具を流し込む 「透過」をテーマにした作品を制作している亀井紀彦さんの虎屋の職人さんと のコラボレーション、そして名画の人物や女優に扮する森村泰昌さんの木型を 使った干菓子。 それぞれに面白かったり、可愛かったりはする。

 長年、麹町「鶴屋八幡」(本店は大阪)の生菓子を、落語研究会の土産にして きた。 だから四季折々の季節感を盛り込んだ「和菓子」の、色と形の美しさ はよく承知していた。 そうした現物の「和菓子」にくらべると、今回のアー ト作品は、お気の毒だが、どれもが負けているのだった。 伝統の力というも のは、いたしかたのないところがある。

 最近、麹町「鶴屋八幡」の斜め前に、京都のという某菓子店が、もっともら しい店を出した。 デパートの地下にも、自由が丘の町中にも、そうした意匠 ばかりに凝った新しい菓子屋が出ている。 しかし「虎屋」や「鶴屋八幡」の ような老舗の菓子と食べ比べると、浅薄で、あえていえばインチキくさいのが 素人にも分かる。 これもいたしかたのないところなのだろう。

「耳学問」のすすめ2006/12/13 08:25

 福沢関係の「耳学問」で、宿題になっているものが、溜まってきたので、自 分の尻を叩くために書き出しておく。 福澤研究センターの2006年度秋学期 の「近代企業家と福澤諭吉」をテーマにした三田演説館での講演会三つ、11月 7日の川口浩早稲田大学政治経済学術院教授の「日本的経営者 武藤山治」、11 月17日の武田晴人東京大学大学院経済学研究科教授の「荘田平五郎と三菱の 経営近代化」、12月1日の高村直助横浜市歴史博物館館長の「会社の誕生」。 福 澤諭吉協会のものは、12月2日の岩波セミナールームでの読書会、坂井達朗同 協会理事(帝京大学教授、慶應義塾大学名誉教授)の「明治17~18年の『時 事新報』を読む」、12月9日の交詢社での第100回土曜セミナー、坂野(ばん の)潤治東京大学名誉教授の「幕末・維新史における議会と憲法―交詢社私擬 憲法の位置づけのために―」である。

 毎度書くけれど、福澤研究センターのそれは「広く一般の方々を対象として」 公開されている(福澤諭吉協会の行事は会員が対象)。 同様に、福沢の時代の 三田演説会以来の伝統だろう、慶應義塾が主催する三田演説会やウェーランド 経済書講述記念日の講演会、小泉信三記念講座や創立150周年記念事業の「復 活!慶應義塾の名講義」シリーズも、だれでも、しかも無料で、聴くことがで きる。 それなのに、せっかくの良い講演に、集まる人の数はけして多くはな いのだ。 もったいない限りである。 落語を一緒に聴きにいく仲間には話を して、ぼちぼち聴きに来るようになった。 出席してみれば、その良さを納得 するようだ。 慶應義塾のホームページを見ていれば、日程が出る。

「日本的経営者 武藤山治」2006/12/14 07:58

 11月7日の川口浩早稲田大学政治経済学術院教授の「日本的経営者 武藤山 治」から始めることにする。 小室正紀(まさみち)福澤研究センター所長の 紹介によると、川口さんは日本経済思想史(江戸時代)の第一人者で、早稲田 の野球部部長、神宮のベンチにその姿があるという。

 武藤山治(慶応3・1867-昭和9・1934)は、明治6年に7歳で制度が出来 たばかりの小学校に入学、14歳で幼稚舎から慶應義塾に入り、18歳で卒業、 アメリカに留学、27歳で三井銀行入行、翌年三井内部の人事異動で鐘淵紡績に 移り、64歳で鐘紡の社長を辞任するまで、その働き盛りの30数年間を鐘紡に 捧げた。 自分の言葉で「独裁的に支配」と言っているという。 当時の最先 端の教育を受け、近代的企業が始めて出てくる(どうやっていいかわからない) 時期に、近代的経営者として活躍した。 私生活では神戸の西洋館に住み、朝 食はコーヒーにトースト、東京の常宿は帝国ホテルだった。 川口さんは、武 藤山治には、そうした近代的で、モダンな「成功した経営者」という一般の評 価ではとらえきれない側面があるという切り口で、この日の話をした。 武藤 山治は、そうした外見的な見え方とは違って、案外、日本の社会に馴染んだ人 だったのではないか、というのである。

 川口浩さんは武藤山治を、江戸時代からの、19世紀末当時の日本社会が持っ ていた規範に則った「日本的経営者」「健全な常識人」だとする。 武藤の強い 倫理観、生真面目さ、真摯に全身全霊をもって働く真面目な人柄に、父親の大 きな影響をみる。 美濃国安八郡脇田村(今の岐阜羽島から車で20分)の地 方名望家だった父・佐久間国三郎は教育・学問に一定の関心を持ち、ポケット マネーで小学校をつくるような人だった。 読書好きで、儒教の本から福沢諭 吉の『西洋事情』まで読み、それが武藤山治の慶應義塾入学の端緒になった。

「日本的経営」の考え方2006/12/15 07:12

 川口浩さんは、武藤山治を「日本的経営者」と見る、4つの要素をあげ、そ の組み合わせであるとした。

 (1)経験的・現実的に対応する思考法。 一定の原理原則を前提において、 それで発想するのではなく、目の前にあることを正確に認識して、発想する。  これは江戸時代人の考え方。 たとえば、人間は何をしても褒美を受けること を予期しているから、どんな仕事でも最高の働きをさせるためには褒美が絶対 に必要だ、という。

 (2)「家」をモデルにした人間観・社会観。 根源的な人間関係のあり方で ある「家族」は、調和のある統一体で、調整不能なものはなく、構成員はなす べきことをする。 「協同一致は自然の法則なり」。 その「家」のあり方が、 他の人間集団にも適用、応用できる。  その原則が、家→会社→国というよ うに同心円的に適用できる、と考える。 「鐘紡の経営法を家族制度に基く」 「鐘紡は大なる家庭である」

 (3)責任論・職分の意識。 それぞれの立場で、やるべきことをきちんと やる。 自分の役割を果す。 身分に応じた職分を果す。 その責任を尽くす ものは、はじめて人の道を尽くし得る。

 (4)「実利」を求める企業経営のあり方。 経営責任については、自分は「株 主」と「従業員」の間にはさまった「番頭(経営者)」であるとする。 改良・ 進歩の果実は、構成員全員に分け与えられていくもの。 株主には利益の配当 を、従業員の職を守り、幸福増進のためにいろいろな設備をし、至れり尽くせ りの待遇を計る。 社会に対しては、最良の品物を、最も安く供給することが、 社会の「実利」になる。